Naked Cafe

横田創(作家)

交換することのできないもの

エドワード・ヤン 再考/再見

エドワード・ヤン 再考/再見

 

なにも言わなくても、まわりにいる男たちが全部してくれた。母親の再就職先も決めてくれたし、病気の治療もしてくれた。ちいさいときからずっとそうだ。なにもしなくても、なにも言わなくても機械のようにそれは動き始める。

 

厚切り食パンでつくったホットドッグ

https://www.instagram.com/p/BWOvjpWl6_h/

マヨネーズを薄く塗ってトーストした厚切りの食パンに、タマネギの薄切りを水にさらしてからよーく絞ったものを敷いたところに焼いたソーセージと卵焼きをのせて、お好みでマスタードなりケチャップなりをかけてから縦に折るようにして食べました。ほんのんり焦げたマヨネーズが美味。なかなかのボリュームでございました。

言葉を持たぬ子供たち 

 つまりは、いまここにいる自分はまだ自分ではない、いまのままではいけない、変わらなければいけないと常に自分自身を否定しつづけている状態。大人になることを運命づけられた者の仮の姿。それが子供である。『輪るピングドラム』の陽毬の余命、その運命を、わたしはそう捉えている。

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冷製トマトパスタ

https://www.instagram.com/p/BW7Z9GAleeJ/

夏の定番。湯むきして刻んだトマト1個に、冷蔵庫で冷やしたトマトソースをおたま一杯加えるのが我が家流(分量は2人前)。コクとフレッシュ感両方欲しいので。隠し味に醤油をちょろっと。仕上げにオリーブオイルを、たっぷりかけるのがコツです。

 

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緊急企画 安全保障関連法案とその採決についてのアンケート への回答(全文)

早稲田文学 2015年 秋号』に掲載されたアンケートへの回答の全文をここに掲載します。250字という依頼を2500字と勘違いして書いてしまった、推敲前のものです。

強姦した者は、してないとは言わない。したはしたけど、和姦だったと主張する。まさに安倍政権がそうで、従軍慰安婦が存在しなかったとは言わないが、強制ではなかった、和姦だった、相手も望んでしたことだと主張する。あたかも和姦であるかのように日米安全保障条約を改定するという、このたびの醜態の根は、そこにあると思う。言わずもがなのことだが、すべてのセックスは強姦である。暴力によって/おいて為されるものである。すべての条約が、不平等条約であるのと同じだ。平等な条約、合意の上でのセックス。そんなものがあると思うのは、ただの妄想である。強姦であったのかなかったのか。事後的に裁決する権利は、強姦された側の者にしかない。それは、された側にだけゆるされた快楽である。これはいじめではない、みずから望んでしたことだと言えるのは、いじめられた側の者だけであって、いじめた側の者が、これはいじめではない、合意の上でのセックスだと、ただちょっと遊んでやったのだと主張することは、おれは殺してない、相手が望んだから、殺せと言うから殺してやっただけだと主張することに等しい。浮世絵が印象派の絵画に多大な影響を与えたと言えるのは、印象派の画家たちだけであるように。ほらみたことか、日本の文化は偉大なのだ。西洋にも認められたのだ主張する。この倒錯が、安倍政権と、それを支持する者たちの根源にあるとわたしは思う。かつてこの国は、アメリカに強姦された。日米安全保障条約という、この不平等条約を、和姦だったと認めるのか(=親米)。強姦だったと主張するのか(=反米)。アメリカに強姦されることで発生したものは、日米安全保障条約だけではない。日本国憲法も、同じ暴力によって/において可能になったのである。かたちを与えられたのである。ゆえにわたしたちは、日米安全保障条約日本国憲法の発生、その生い立ちに対して、同じひとつの裁定を下さなければならない。日本国憲法第九条は和姦だったが、この条約の改定、その強行採決は強姦だ、押しつけられたものだと主張することはゆるされないことを、わたしたちは、肝に銘じておかなければならないと思う。

 

早稲田文学 2015年秋号 (単行本)

早稲田文学 2015年秋号 (単行本)

 

 

丘の上の動物園

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

一年の中で最も日が長い季節とはいえ、赤くぽってりとした夕日のおなかが丘の稜線に触れてから暗くなるまではあっというまだった。コウノトリの巨大なケージの網のあいだから空が擦り抜けるようにして落ちていった。明るいうちは展示場の中を所狭しと走りまわっていたエミューも膝をつき、干し草の山のようなかたちになって眠っていた。逆にタヌキは行動し始めたようだけど、暗くてそこに何匹いるかもわからなかった。オジロワシの白い尾が月明かりを受けて、枝も葉もない木のてっぺんに浮かんでいた。

11月6日発売の『すばる 12月号』に、あたらしい小説を発表しました。気づいたら、三年近くたってました。いつか観た、夜の遊園地をさまよい歩く孤児の少年が、結局最後は逮捕されるか補導されるかして車に乗せられ街を離れる、えらく感動したのに名前を思い出せなくて観たのはそれ一度きりのフランス映画みたいな小説を書きたいと思い始めた仕事なのですが、夜の動物園を歩いたのはほんの一瞬でした。夜よりも暗い、あるものに触れ、抱きしめるようにして書きました。

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リリイ・シュシュ、映画の主体の脱構築

ユリイカ9月号 特集*岩井俊二』にエセーを発表しました。主に『リリイ・シュシュのすべて』について。やはり今回も、そうは書いていないというか、言葉そのものは出てきませんが、自由間接話法について書いています。どうやらいまのわたしには、表現と名のつくものならどんなものでも自由間接話法によって表現されたものにしか見えないようです。仮にもしそうだとしたら、岩井俊二の、およそ映画らしからぬ映画はどんな自由間接話法によって表現されているのか。わたしの興味はそこにあります。そこにしかないと言ってもいいかもしれません。

自由間接話法という言葉を便利に使いすぎているのではないかという疑念はもちろんあります。だけどもうどうしようもなくそうとしか思えないのです。大変、大変遅ればせながら読み始めた、そして読み進めながら震撼とさせられている『苦海浄土』(石牟礼道子・著)という、およそ小説らしい顔をしていないのに、いや、たぶん、してないからこそ、これぞ小説、としか言いようがないこの小説は、小説ではなくてドキュメンタリーであると思われても仕方がないような書き方、語り方をしているからこそ小説なのです。

それは岩井俊二の映画も同じです。そしてそれは彼の仕事の、映像のテーマそのものでもあります。表現と名のつくものならどんなものでもとわたしは書きました。つまりはなにかについて書かれているもの、語られているものならどんなものでもそれ相応の、そして独特の自由間接話法が作動している(リリイ・シュシュのすべて=All about lilychouchou)。いまのわたしに言わせれば、図鑑や辞書も自由間接話法によるものです。wikipediaであっても同じです。フィクション/ノンフィクションなどという区別は必要ありません。重要なのは、なにか「について」書かれていること、語れていることです。

つまり自由間接話法とは、なにかについて書くための、語るための方法である。ただし、書かれているのは、語られているのはその「なにか」ではありません。あくまでもそれは「について」でしかないのです。もちろん「について」について書かれているのではありません。「について」に「について」はありません。それは不可能なのです。なぜなら「について」は、目に見えるもの、書かれたものでも語られたものでもないからです。それは世界に属していない*1。つまりは「なにか」ではない。ものではないもの。それはなにだと、これだと答えることができないもの。要するに、主体のことです。意識のことです。自己です。

主体とは、自己とは「について」である。つまりは意識のことであり、意味であり、他なるものへと向かう/帰る運動のことです。わたしはそれを自由間接話法と呼んだり隣人愛と呼んだりしているのです。他なるものへと向かう/帰るとはすなわち責任をとることです。それを「主体化」と晩年のフーコーは呼びました。なにか「について」語ることは、その「なにか」という他なるものによって/において主体的に振る舞うことであり責任をとることです。自己の自由にならないものと共に自由になることです。愛することです。だけどわたしはほんの数ヶ月前に、イタリアの作家アントニオ・タブッキの短編集『逆さまゲーム』についてのエセーの中でこう書きました。

この本の前書き(「はじめに」)の中で語られている作者の言葉を使えば、《こうにちがいない》と思っていたことが、そうでないということに気づくために、わたしたちに与えられたただひとつの方法、それは語ることである。なにかについて語ることだけが語ることであるなら、そんなことは元より不可能であるどころか逆に《こうにちがいない》を強化することにしかならないだろう。
だがもし語ることが、なにかについて語ることではないとしたら? つまりは、ありとあらゆるものに先立つものとしての、いや、ものではないものとしての語ること、言葉の運動、意味それ自体としての語ることは、わたしたちの《こうにちがいない》を解体せずにはいられないだろう。

あくまでも結果的にですが、つまりは考えたことを書いたのではなく、書くことによって/において考えたことなのですが、語られているのは「なにか」ではなく「について」であるという認識と、語ることはなにかについて語ることではなく、ありとあらゆるものに先立つ運動であり意味である、つまりは脱構築であるという認識は、同じ絶望に貫かれているような気がします。

ユリイカ2012年6月号 特集=アントニオ・タブッキ

ユリイカ2012年6月号 特集=アントニオ・タブッキ

逆さまゲーム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

逆さまゲーム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

Tractatus Logico-Philosophicus (Routledge Classics)

Tractatus Logico-Philosophicus (Routledge Classics)

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

5.631 思考し表象する主体は、存在しない。
5.632 主体は世界に属するのではなく、それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

どうして主体は書き込めないのだろうか?
思考し表象する主体(書く主体)とは、思考し表象する人間(書き手)のことではないからである。思考し表象する人間(書き手)のことならば、いくらでも詳しく本の中に書き加えることができる。しかし、どんなにその人間(書き手)の詳細を書き加えても、その「詳細を書き加えること」そのものについては書くことができない。いや、その「詳細を書き加えること」についても、さらに記述を加えることはできる。しかしその場合には「さらに記述を加えること」そのものについては書くことができない。
このように、どうしても書き込めない主体とは、思考し表象する人間(書き手)のことではなくて、思考する・表象する・書くということそれ自体である。そのような「行為それ自体という主体」は「思考され・表象され・書かれた」内容の中には登場しえないが、しかしその内容を成立させている「不在」としてはある。「思考し表象する主体が、世界の限界である」とは「書くことそのものとは、書かれた内容の全体をぴったりと覆っている不在としてある」ということと同じである。
……入不二基義ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』

*1:5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン論理哲学論考