Naked Cafe

横田創(小説家)

『落としもの』取扱書店

◎北海道・東北

菊谷書店帯広店(北海道帯広市

BOOKNERD岩手県盛岡市

ジュンク堂書店郡山店福島県郡山市

 
◎上信甲越

ジュンク堂書店新潟店新潟県新潟市

知遊堂亀貝店新潟県新潟市

ジュンク堂書店甲府店山梨県甲府市

 

◎関東

うさぎや宇都宮駅東口店(栃木県)

EJS043(千葉県千葉市

ときわ書房志津ステーションビル店(千葉県佐倉市

CHIENOWA BOOK STORE(埼玉県朝霞市

ブックデポ書楽(埼玉県さいたま市

有隣堂藤沢店(神奈川県藤沢市

四畳半ノ星空書房(神奈川県三浦郡

湘南T-SITE(神奈川県藤沢市

 

◎東京都

かもめブックス(東京都新宿区)

神楽坂モノガタリ(東京都新宿区)

芳林堂書店高田馬場店(東京都新宿区)

紀伊國屋書店新宿本店(東京都新宿区)

伊野尾書店(東京都新宿区)

ジュンク堂書店池袋本店(東京都豊島区)

三省堂書店池袋本店(東京都豊島区)

くまざわ書店池袋店(東京都豊島区)

青山ブックセンター本店(東京都渋谷区)

代官山蔦屋書店(東京都渋谷区)

SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(東京都渋谷区)

二子玉川蔦屋家電(東京都世田谷区)

本屋 B&B(東京都世田谷区)

本屋 Title(東京都杉並区)

マルノウチリーディングスタイル(東京都千代田区

丸善丸の内本店(東京都千代田区

丸善御茶ノ水店(東京都千代田区

三省堂書店神保町本店(東京都千代田区

SUNNY BOY BOOKS(東京都目黒区)

双子のライオン堂(東京都港区)

BOOKS 青いカバ(東京都文京区)

ひるねこBOOKS (東京都台東区

書肆スーベニア(東京都墨田区

BOOKSルーエ(東京都武蔵野市

増田書店(東京都国立市

ブックス隆文堂(東京都国分寺市

オリオン書房ノルテ店(東京都立川市

パルコブックセンター調布店(東京都調布市

 

◎東海

丸善名古屋本店(愛知県名古屋市

Carlova 360 NAGOYA(愛知県名古屋市

ちくさ正文館(愛知県名古屋市

七五書店(愛知県名古屋市

ザ・リブレットイオン千種店(愛知県名古屋市

ザ・リブレットヒルズウォーク徳重店(愛知県名古屋市

ザ・リブレット ラシック栄店(愛知県名古屋市

リブレット大名古屋店(愛知県名古屋市

ON READING(愛知県名古屋市)

戸田書店掛川西郷店静岡県掛川市

アマノアクト北店静岡県浜松市


◎関西

恵文社一乗寺店京都府京都市

ふたば書房御池ゼスト店京都府京都市

ジュンク堂書店京都店京都府京都市

Montag Booksellers京都府京都市

スタンダードブックストア大阪府大阪市

スタンダードブックストアあべの大阪府大阪市

ブックスタジオ大阪店大阪府大阪市

ジュンク堂書店大阪本店大阪府大阪市

MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店大阪府大阪市

紀伊國屋書店グランフロント大阪店大阪府大阪市

清風堂書店大阪府大阪市

リブロイオン鶴見店大阪府鶴見区

blackbird books大阪府豊中市

1003兵庫県神戸市)

ジュンク堂書店姫路店兵庫県姫路市

とほん奈良県大和郡山市

 

◎中国・四国・九州

エディオン蔦屋家電広島県広島市

READAN DEAT広島県広島市

ジュンク堂書店高松店香川県高松市

ルヌガンガ香川県高松市

ブックスキューブリックけやき通り店(福岡県福岡市)

ジュンク堂書店福岡店(福岡県福岡市)

 

 

 

先行発売のお知らせ

2018年1月17日から、二子玉川蔦屋家電BOOKフロアにて、短編集『落としもの』の先行販売をします。


短編集『落としもの』

落としもの

落としもの

収録作品
お葬式(「ユリイカ」2008年12月号)
落としもの(「新潮」2008年11月号)
いまは夜である(「群像」2008年1月号)
残念な乳首(「群像」2008年8月号)
パンと友だち(「新潮」2009年4月号)
ちいさいビル(「すばる」2007年11月号)

 

カバー・扉写真:Nguan

装幀:中原麻那

印刷所:藤原印刷株式会社

発行者:北田博充

発行所:書肆汽水域

交換することのできないもの

エドワード・ヤン 再考/再見

エドワード・ヤン 再考/再見

なにも言わなくても、まわりにいる男たちが全部してくれた。母親の再就職先も決めてくれたし、病気の治療もしてくれた。ちいさいときからずっとそうだ。なにもしなくても、なにも言わなくても機械のようにそれは動き始める。

牯嶺街少年殺人事件 [DVD]

牯嶺街少年殺人事件 [DVD]

厚切り食パンでつくったホットドッグ

https://www.instagram.com/p/BWOvjpWl6_h/

マヨネーズを薄く塗ってトーストした厚切りの食パンに、タマネギの薄切りを水にさらしてからよーく絞ったものを敷いたところに焼いたソーセージと卵焼きをのせて、お好みでマスタードなりケチャップなりをかけてから縦に折るようにして食べました。ほんのんり焦げたマヨネーズが美味。なかなかのボリュームでございました。

言葉を持たぬ子供たち 

つまりは、いまここにいる自分はまだ自分ではない、いまのままではいけない、変わらなければいけないと常に自分自身を否定しつづけている状態。大人になることを運命づけられた者の仮の姿。それが子供である。『輪るピングドラム』の陽毬の余命、その運命を、わたしはそう捉えている。

冷製トマトパスタ

https://www.instagram.com/p/BW7Z9GAleeJ/

夏の定番。湯むきして刻んだトマト1個に、冷蔵庫で冷やしたトマトソースをおたま一杯加えるのが我が家流(分量は2人前)。コクとフレッシュ感両方欲しいので。隠し味に醤油をちょろっと。仕上げにオリーブオイルを、たっぷりかけるのがコツです。

 

緊急企画 安全保障関連法案とその採決についてのアンケート への回答(全文)

早稲田文学 2015年 秋号』に掲載されたアンケートへの回答の全文をここに掲載します。250字という依頼を2500字と勘違いして書いてしまった、推敲前のものです。

強姦した者は、してないとは言わない。したはしたけど、和姦だったと主張する。まさに安倍政権がそうで、従軍慰安婦が存在しなかったとは言わないが、強制ではなかった、和姦だった、相手も望んでしたことだと主張する。あたかも和姦であるかのように日米安全保障条約を改定するという、このたびの醜態の根は、そこにあると思う。言わずもがなのことだが、すべてのセックスは強姦である。暴力によって/おいて為されるものである。すべての条約が、不平等条約であるのと同じだ。平等な条約、合意の上でのセックス。そんなものがあると思うのは、ただの妄想である。強姦であったのかなかったのか。事後的に裁決する権利は、強姦された側の者にしかない。それは、された側にだけゆるされた快楽である。これはいじめではない、みずから望んでしたことだと言えるのは、いじめられた側の者だけであって、いじめた側の者が、これはいじめではない、合意の上でのセックスだと、ただちょっと遊んでやったのだと主張することは、おれは殺してない、相手が望んだから、殺せと言うから殺してやっただけだと主張することに等しい。浮世絵が印象派の絵画に多大な影響を与えたと言えるのは、印象派の画家たちだけであるように。ほらみたことか、日本の文化は偉大なのだ。西洋にも認められたのだ主張する。この倒錯が、安倍政権と、それを支持する者たちの根源にあるとわたしは思う。かつてこの国は、アメリカに強姦された。日米安全保障条約という、この不平等条約を、和姦だったと認めるのか(=親米)。強姦だったと主張するのか(=反米)。アメリカに強姦されることで発生したものは、日米安全保障条約だけではない。日本国憲法も、同じ暴力によって/において可能になったのである。かたちを与えられたのである。ゆえにわたしたちは、日米安全保障条約日本国憲法の発生、その生い立ちに対して、同じひとつの裁定を下さなければならない。日本国憲法第九条は和姦だったが、この条約の改定、その強行採決は強姦だ、押しつけられたものだと主張することはゆるされないことを、わたしたちは、肝に銘じておかなければならないと思う。

 

早稲田文学 2015年秋号 (単行本)

早稲田文学 2015年秋号 (単行本)

 

 

丘の上の動物園

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

一年の中で最も日が長い季節とはいえ、赤くぽってりとした夕日のおなかが丘の稜線に触れてから暗くなるまではあっというまだった。コウノトリの巨大なケージの網のあいだから空が擦り抜けるようにして落ちていった。明るいうちは展示場の中を所狭しと走りまわっていたエミューも膝をつき、干し草の山のようなかたちになって眠っていた。逆にタヌキは行動し始めたようだけど、暗くてそこに何匹いるかもわからなかった。オジロワシの白い尾が月明かりを受けて、枝も葉もない木のてっぺんに浮かんでいた。

11月6日発売の『すばる 12月号』に、あたらしい小説を発表しました。気づいたら、三年近くたってました。いつか観た、夜の遊園地をさまよい歩く孤児の少年が、結局最後は逮捕されるか補導されるかして車に乗せられ街を離れる、えらく感動したのに名前を思い出せなくて観たのはそれ一度きりのフランス映画みたいな小説を書きたいと思い始めた仕事なのですが、夜の動物園を歩いたのはほんの一瞬でした。夜よりも暗い、あるものに触れ、抱きしめるようにして書きました。

リリイ・シュシュ、映画の主体の脱構築

ユリイカ9月号 特集*岩井俊二』にエセーを発表しました。主に『リリイ・シュシュのすべて』について。やはり今回も、そうは書いていないというか、言葉そのものは出てきませんが、自由間接話法について書いています。どうやらいまのわたしには、表現と名のつくものならどんなものでも自由間接話法によって表現されたものにしか見えないようです。仮にもしそうだとしたら、岩井俊二の、およそ映画らしからぬ映画はどんな自由間接話法によって表現されているのか。わたしの興味はそこにあります。そこにしかないと言ってもいいかもしれません。

自由間接話法という言葉を便利に使いすぎているのではないかという疑念はもちろんあります。だけどもうどうしようもなくそうとしか思えないのです。大変、大変遅ればせながら読み始めた、そして読み進めながら震撼とさせられている『苦海浄土』(石牟礼道子・著)という、およそ小説らしい顔をしていないのに、いや、たぶん、してないからこそ、これぞ小説、としか言いようがないこの小説は、小説ではなくてドキュメンタリーであると思われても仕方がないような書き方、語り方をしているからこそ小説なのです。

それは岩井俊二の映画も同じです。そしてそれは彼の仕事の、映像のテーマそのものでもあります。表現と名のつくものならどんなものでもとわたしは書きました。つまりはなにかについて書かれているもの、語られているものならどんなものでもそれ相応の、そして独特の自由間接話法が作動している(リリイ・シュシュのすべて=All about lilychouchou)。いまのわたしに言わせれば、図鑑や辞書も自由間接話法によるものです。wikipediaであっても同じです。フィクション/ノンフィクションなどという区別は必要ありません。重要なのは、なにか「について」書かれていること、語れていることです。

つまり自由間接話法とは、なにかについて書くための、語るための方法である。ただし、書かれているのは、語られているのはその「なにか」ではありません。あくまでもそれは「について」でしかないのです。もちろん「について」について書かれているのではありません。「について」に「について」はありません。それは不可能なのです。なぜなら「について」は、目に見えるもの、書かれたものでも語られたものでもないからです。それは世界に属していない*1。つまりは「なにか」ではない。ものではないもの。それはなにだと、これだと答えることができないもの。要するに、主体のことです。意識のことです。自己です。

主体とは、自己とは「について」である。つまりは意識のことであり、意味であり、他なるものへと向かう/帰る運動のことです。わたしはそれを自由間接話法と呼んだり隣人愛と呼んだりしているのです。他なるものへと向かう/帰るとはすなわち責任をとることです。それを「主体化」と晩年のフーコーは呼びました。なにか「について」語ることは、その「なにか」という他なるものによって/において主体的に振る舞うことであり責任をとることです。自己の自由にならないものと共に自由になることです。愛することです。だけどわたしはほんの数ヶ月前に、イタリアの作家アントニオ・タブッキの短編集『逆さまゲーム』についてのエセーの中でこう書きました。

この本の前書き(「はじめに」)の中で語られている作者の言葉を使えば、《こうにちがいない》と思っていたことが、そうでないということに気づくために、わたしたちに与えられたただひとつの方法、それは語ることである。なにかについて語ることだけが語ることであるなら、そんなことは元より不可能であるどころか逆に《こうにちがいない》を強化することにしかならないだろう。
だがもし語ることが、なにかについて語ることではないとしたら? つまりは、ありとあらゆるものに先立つものとしての、いや、ものではないものとしての語ること、言葉の運動、意味それ自体としての語ることは、わたしたちの《こうにちがいない》を解体せずにはいられないだろう。

あくまでも結果的にですが、つまりは考えたことを書いたのではなく、書くことによって/において考えたことなのですが、語られているのは「なにか」ではなく「について」であるという認識と、語ることはなにかについて語ることではなく、ありとあらゆるものに先立つ運動であり意味である、つまりは脱構築であるという認識は、同じ絶望に貫かれているような気がします。

ユリイカ2012年6月号 特集=アントニオ・タブッキ

ユリイカ2012年6月号 特集=アントニオ・タブッキ

逆さまゲーム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

逆さまゲーム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

Tractatus Logico-Philosophicus (Routledge Classics)

Tractatus Logico-Philosophicus (Routledge Classics)

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

5.631 思考し表象する主体は、存在しない。
5.632 主体は世界に属するのではなく、それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

どうして主体は書き込めないのだろうか?
思考し表象する主体(書く主体)とは、思考し表象する人間(書き手)のことではないからである。思考し表象する人間(書き手)のことならば、いくらでも詳しく本の中に書き加えることができる。しかし、どんなにその人間(書き手)の詳細を書き加えても、その「詳細を書き加えること」そのものについては書くことができない。いや、その「詳細を書き加えること」についても、さらに記述を加えることはできる。しかしその場合には「さらに記述を加えること」そのものについては書くことができない。
このように、どうしても書き込めない主体とは、思考し表象する人間(書き手)のことではなくて、思考する・表象する・書くということそれ自体である。そのような「行為それ自体という主体」は「思考され・表象され・書かれた」内容の中には登場しえないが、しかしその内容を成立させている「不在」としてはある。「思考し表象する主体が、世界の限界である」とは「書くことそのものとは、書かれた内容の全体をぴったりと覆っている不在としてある」ということと同じである。
……入不二基義ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』

*1:5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

この先の方法

YES(or YES)

YES(or YES)

いま思えば橘上は、あのころからすでに同じことをしていたのである。あのころ、というのはわたしが雑誌『現代詩手帖』で映画評の連載をしていたとき、ふと投稿欄で目にした橘上(たちばなうえ? たちばなのうえ?)の「花子かわいいよ」(『複雑骨折』所収)という詩を読んで驚いて、興奮してあちこちに、たちばなじょう、たちばなじょう触れまわっていたころのことである。

 花子。かわいいよ花子。えっ何? 何でこんなにかわいいの? かわいい。本っ当にかわいい。かわいいわ。何つーか、その、かわいい。ばりばりかわいい。花子をミキサーにかけて、どろどろした花子ジュースをつくったとしても、絶対かわいい。もうヤベェ、ヤベェヤベェ。電柱があって、その電柱を花子と思い込めばかわいいもん。もう何だろうな。死ねよ。死んじゃえよ。何でお前みたいなのが生きてるんだよ。もう死んじゃえよ。マジで。(「花子かわいいよ」)

この詩の登場人物は花子ではない。正確に言えば、花子だけではない。かわいいも「えっ何?」「何つーか」の何もこの詩の重要な登場人物であることに気づいた者はミキサーやジュースがこの詩の通行人であり電柱がそこに立っていることに気づくだろう。それだけではない。ヤベェもこの詩によって/において重要な役を与えられている。ヤベェヤベェとくり返されている。電柱と花子とかわいいが死ねと死んじゃえよを連れてヤベェヤベェと歩いてくる。花子は確かに主役でこの詩の主人公だが唯一の登場人物ではない。いや、人物である必要はない。言葉であればじゅうぶんなのである。

ゆるしてくれよとぼくがいう ぼくみたいなぼくにいう いつでもだれでもよかったけれど、かなしみはいつもかなしめず、さびしそうにわらうだけ こんなふうにちからつきてみせる すきとおったぼくは あいつのおきにいり なまえをしらないけれどきにすることはない あいつもぼくをなまえでよばない (「この先の方法」)

この詩がこの詩によって/において言っている、というよりわたしたちの目の前でやって見せている=証明している通り「こんなふうにちからつきてみせる すきとおったぼく」は登場しない。「この先の方法」と題されたこの詩の主題は、ぼくの「この先の方法」ではなく、言葉の「この先の方法」である。ぼくでなくても「いつでもだれでもよかった」のである。

(ところで、かなしめないかなしみなどあるのだろうか。かなしめないかなしみは、それでもかなしみなのだろうか。それとも、もはやかなしみではないのだろうか。と、ぼくみたいなぼくにぼくはいう。いつでもだれでもよかったけれど、ぼくにいう。ぼくはいう。なまえをしらないあいつにぼくはいう。ぼくのしらない、ぼくをしらないあいつにいう。ぼくでないぼくはぼくなのだろうか。ぼくはぼくでなくてもぼくなのだろうか。ぼくでないものについてかたるぼくはぼくなのだろうか。ぼくでないものなのだろうか。それとも、どちらでもないものになるのだろうか。ことばになれるのだろうか。)

両義的でも多義的なのでもない。言葉はその言葉の隣りにある言葉である。隣りにある言葉の名付け親でも子でもなく、隣りにある言葉自身である。自分自身ではないもの自身であること、それが言葉であることである。言葉のこの本質なき本質を、自己なき自己を、かなしみを、意味とも論理とも隣人愛とも自由間接話法ともわたしたちは呼ぶのだけれど、ここでそう呼ぶ必要はないだろう。隣人は人である必要はない。愛とは人が人を愛することだけではない。かなしみだって、かなしみである自分を愛することができる日もあればできない日もある。ベテラン看護師がふと看護師である自分を看護師であったと、もうじゅうぶん自分は看護師であったと思う宿直の夜があるように。汚れて向こう側が見えない窓ガラスも窓ガラスである。赤ちゃんは、いづれかならずおおきくならなければならないわけではないのである。カバは自分がカバと呼ばれていることを、おそらく知らない。知らないと知ることもできない。かなしみは、かなしみと口にする、あるいは手で書く者のかなしみではない。かなしみはかなしみである。手や足がなくてもそのひとがそのひとであるように。死んだからといって、そのひとがいまここから、わたしの前からいなくなったからといってそのひとがそのひとでなくなったわけではないように。そのひとがそのひとでなくなってしまったように感じるのはむしろ、そのひとがそのひとであることを、きのうの夜、しゃべり過ぎてしまったと後悔する次の日の午後である。自由間接話法は、言葉を言葉で語る/語らないための、いつでも誰にとっても新しい「この先の方法」である。

あなたが新しく通り過ぎるなら 濡れたままでもよかったけれど 時計を合わせるのに 何年も費やしてしまったから それでもあのこははしらなかったから バスは予定通り来てしまう 何もさわらないで
バスは来さえすればいいのです さるひつようなどないのです 来てください 来るだけのバスでいてください (「雨」)

言葉で言葉を語ることはできない。なぜなら言葉は語るだから。語るでない言葉は言葉でないから。言葉であるとき、すでに言葉は言葉ではなく、語るであるほかないものだから。語るを語ることはできない。目に見えないものを目に見えないもので表象することはできない。雨は降ることはできても、雨は降るが降ることはできない。雨が降るが降るには、たとえばバスという降るはずのないものの愛が、かなしみが、摩擦が、突き刺さるが、傷が必要なのである。

バスは走る 雨になって走る 鳥と何度も摩擦して 先がじょうずにまるまった しゅうしょくされないあの塔へ いつかのあした、ふりそそぐ バスはあなた以外でいっぱいです バスは降る 雨になって降りながら 塔の上に突き刺さる 刺さりながらも車輪をまわして 空と摩擦し傷をつけ 傷口から 雨が降る (「雨」)

複雑骨折

複雑骨折

豆腐の肉

(十月の、とある日曜日に、友だち夫婦の家で思うぞんぶん料理をさせてもらうという、なんとも楽しい機会を得た。ふたりが住む浜田山の白くて古いきれいなマンションの近くにあるカルディで乾燥キクラゲを見つけ、いまだに節電モードで薄暗い西友の食品売り場で鶏の胸肉と小松菜を大量に購入してその日わたしが作った料理の大半は雑誌『きょうの料理』の公式サイト「みんなのきょうの料理」を検索して選択したレシピである(その夜作ったもので、もっとも好評だった鶏の胸肉の青椒肉絲の元にしたレシピはこちら)。わたしはほとんど毎日このサイトを検索している。safariのブックマークバーの「料理」というボタンを押せば即開く。そして「スープ」とか「汁」とか「グラタン」とか「ハンバーグ」いった極めておおざっぱな料理名の隣りにひとマスあけで「豚挽き肉」とか「鶏レバー」とか「ジャガイモ」といった食材の名前を入力して検索する。基本的にプロの料理人のレシピしか掲載されていないこのサイトにはないと思われる、冷蔵庫の残り物的というか主婦まるだしな料理をするときは、ぐぐる。味噌汁にめかぶを入れてもいいのかな? まずいのかな? いや、実はイケるのではないかと思ったときは「味噌汁」「めかぶ」と入力してreturnキーを右手の小指で叩く(うまかった!)。これから紹介するのは、そんなふうにしてわたしが見つけたレシピである。そのほとんどが「みんなのきょうの料理」に掲載されていたレシピで、ブックマークの「料理」フォルダには、ざっと見積もっても二百か三百くらいの「みんなのきょうの料理」のオレンジ色のアイコンのついたブックマークが並んでいる(パソコンがクラッシュするたびに失われても、それはまたすぐに降り積もる)。はっきり言って一日中、今夜の料理はどうしようか、なににしようかと考えている。なんかちょっと違うな、そんな気分じゃないな、あ、これおいしそうだな、最初の最初に思っていたのとだいぶ違うものだけどこれでいいかな、いや、でも冷蔵庫の中には、などと近所のスーパーまで白いエコバッグを引っ掴んで買い物に行くまでつづく。肝心かなめの食材が売り切れていて手に入らなかったときのために二の矢、三の矢のレシピも用意して行く(そしてそれは往々にして起こる)。買い物リストは自分の携帯電話にパソコンからメールで送る。たとえば、もやし/えのき/にら/にんにく/豆板醤/イングリッシュマフィン/豆乳/木綿豆腐/卵/ピザ用チーズ(ちなみにこの日のレシピは「もやしタンタン」そーぐっど!)。レシピ本の付箋が貼られたものが、作りきれないほどたくさん順番待ちをしているのでメインは意外とすぐに決まるのだが、それでも副菜的なものと汁的なものの検索はする。相性、とか思う。栄養のバランス、というか必須アミノ酸とビタミンの組み合わせはかなり気にしている(おかげで最近タンパク質の勉強にハマり始めている)。カロリー計算はちいさいときに母親に鍛えられたので、しようとしなくても自然としている(なのに最近カップクがよくなり出したのは、ひとえに加齢のせいであると思われる)。料理は現実と空想の、成長あるいは老いと知の、どこまでも行ってもシミュラークルな異種格闘技である(内臓を切って開いて並べただけで何畳分くらいのフィールドになるのだろう)。わたしたちの血となり肉となるのは「わたしたち」という常にしてすでに「わたし」を超えたわたしの肉であり血である。食べるほうも食べられるほうも血であり肉であり、同じひとつの回路であり生成である(よってこの「わたしたち」には、食べるほうも食べられるほうも含まれる)。基本、なにかが変わったというよりも、変わらない、と言うほうが好きだから言うのだが、料理に3・11以前も以後もない。ずっとわたしたちはこうした格闘の末に、ではなくその途上で生きてきたし死んできた。代謝することが生きることであるのは細胞レベルの話だけではないはず。ひたすら栄養を吸収して臓器を形成しつづければ必ずや自分が望んだ以上の自分が鏡の永遠の中に出現するだろう(それをパラノイアと精神分析家は呼ぶのである)。冷蔵庫をすっからかんにするのは実に気分がいい(おかげで週に一度は年末がわたしのこころに訪れる)。目の前にランチの行列が出来ている(わたしはいま初台のオペラシティの吹き抜けの中庭を臨むエクセルシオール・カフェでこれを書いている)。そして今夜なにを作ろうかと考えている。きのうはコウ・ケンテツの「韓国風湯豆腐」と高山なおみの「カキとセリの炊き込みご飯」*1だったから、きょうはパスタにしようか、グラタンにしようかと考えているわたしもまた血であり肉である。無料の電波が飛んでいる幡ヶ谷のサクラ・カフェに移動してレシピを検索しながら書くことにする。)


厚揚げと小松菜のナムル
十月の、とある日曜日のその夜に最初に作った一品である。ナムルのうまさとそのお手軽さについては、あらためてここで語る必要はないだろう。基本、ゴマとニンニクと塩と砂糖で、わりとどころかかなりきつめの味付けをしてもメインの食材の邪魔には決してならないこの副菜こそが韓国料理の純粋、ほかのどの料理にも含まれる元素なのではないかとわたしには思われる。タイやベトナムの料理もそうだが、東アジアの料理は野菜が、特に葉物野菜がテーブルの上にところ狭しと並ぶところが、とにもかくにも嬉しい。ならばと肉の代わりになるだけの食べ応えと栄養価をを含む厚揚げと、チンゲンサイの代わりになるどころかチンゲンサイを食べたくなるときに無意識にわたしたちが求めているもの、そのすべてを含みながらチンゲンサイよりも食べやすく、味も濃く、色味も豊かで歯ごたえもある小松菜を使ってナムルを主菜にしたのがこのレシピである。そして、小松菜といえばこの中華そばである。


小松菜そば
ひそかにわたしが小松菜の翡翠ラーメンと呼んでいる、実に手軽でシンプルなラーメンである。なにはさておき見た目が素晴らしい。山奥の湖を思い出させるような濃い緑の破片がきらきらと浮かんだスープの表面がすーんとしている。実に静かなラーメンである。なのでこってり系のラーメンが好きなひとには残念ながらオススメできない。むしろこってり系のラーメンにうんざりしているひとが、自分でラーメンを作ってみたくなったときのためのレシピの叩き台というか好きな食材(たとえば、ジャガイモとウィンナー、キャベツと鮭、春菊と豚バラブロック)を代入して同じように1センチ角に刻んで湯の中に放り込めばオリジナルのラーメンを作ることができる形式にこのレシピはなるのではないだろうか。それくらいシンプルなこのラーメンの材料は小松菜と鶏のもも肉。スープはこのもも肉を煮ることで自然に作られる出汁を塩で味を調えただけの実にシンプルなもの。小松菜はもともとは江戸川区の小松と呼ばれる地区の菜っ葉。聞けば日本各地にはむかし小松菜のようなご当地菜っ葉が自生するかのごとくどこの畑でも栽培されていたのだという。野沢菜漬けで有名な野沢温泉の野沢菜しかり、富士の裾野の鳴沢村の鳴沢菜しかり、水菜や壬生菜といった京野菜ももともとは地元の市場や直売所でしか売られていなかった、あるいは自分で作って自分で食べていた究極の地産地消菜っ葉だったのだろう。みんなチンゲンサイの仲間でアブラナ科である。かつては三浦大根や練馬大根といったご当地大根もスーパーに並んでいたのにいまでは青首大根と呼ばれる箱詰めしやすい品種しか流通しなくなってしまった大根もアブラナ科。言われてみれば葉というか茎の断面が、小松菜の茎と同じ雨樋みたいなかたちをしている。ということは、小松菜の茎で菜っ葉飯を作れるのでは? カブの葉っぱの菜っ葉飯はとってもうまかった。そう。この誰もが好きな、誰もがわーきれーと声を上げてしまう菜っ葉飯の麺ヴァージョンが「小松菜そば」なのである。同じように厚揚げのレシピをもうひとつ紹介する。


キャベツと厚揚げのみそ炒め
このレシピを豚挽き肉抜きで、厚揚げだけで作ることをわたしはオススメする。厚揚げは大豆の肉である。大豆の肉を揚げたものだから、ちゃんとまわりに脂身のような衣もついている。豆腐という肉の唯一の弱点である、味がつきにくいところもこの衣が解消してくれる。そらにこのレシピのちょっと変わったところ、そしてすぐれているところは、味のベースになる味噌に梅干しを叩いたのを混ぜて酸味を加えていることである。中華の多くのレシピがそうだが(そして酢豚の中のパイナップルに代表される、多くの男性陣に不評なレシピなのだが)、こってりした味付けになればなるほど酸味が欲しい。我が家の定番である「梅肉入りしょうが焼き」は、夏になると食べたくなる一品である。インスタントの醤油ラーメンを煮るときに梅干しをひとつ落とすとレイヤーがまたひとつ加わって味にひろがりが出るし、ご飯を炊くときに一合につき一粒、種を抜いて入れて軽く混ぜて食べると胃もたれの防止にもなる(菜っ葉飯と合わせたら色も味も最高なご飯になるのではないか、といま思いついた)。


肉なしマーボー豆腐
なんだか、だんだんダイエットレシピの紹介記事みたいになってきたが、あなどるなかれ、この麻婆豆腐は絶品である。いろいろなレシピで、あるいはいろいろなお店で食べた味を見よう見真似で作ってきたが、これだけ豆板醤の辛みを軽快に楽しむことができる麻婆豆腐はほかに思いつかない。サンプルの画像をよく見て欲しい。とろみの中に二種類の豆腐が混在していることにお気づきだろうか。手で細かく砕いてフライパンでよーく炒った豆腐がこの麻婆豆腐の挽肉で、四角く切って湯通しした豆腐がこの麻婆豆腐の豆腐である。ぜひ「レタスとトマトのスープ」と一緒に。顆粒チキンスープの素はどれでも良いが、常に同じものを使うことが肝要であると思われるのは、かなりの塩分が含まれているからで、わたしは顆粒チキンスープの素を使ったスープを作るときは細かく刻んだザーサイを入れたりしてこれ以上塩を使わないようにしている。料理に使う塩は、ただ塩である塩ではなく、塩の代わりにもなる食材をできるだけ多く使いたいものである。洋食っぽいスープを作るときはベーコンを水から入れて弱火で煮立てて出汁をとりながら自然に塩分を加えて、和食の汁には野沢菜や高菜といった漬け物を入れて単純でない複雑怪奇な塩分気分を味わうことをオススメする。ということで今夜は「納豆入りおかず豚汁」を作る。


納豆入りおかず豚汁
きのうの夜「きょうの料理」で見たばかりのレシピである。まだ一度も作ってないのにオススメするなどという暴挙に打って出ることができるのは、いままでに数々のケンタロウレシピを作ってきたという自負があるからなのだが*2、そうでなくても作りたくなる食材がずらりと並んだレシピである。この豚汁は煮干しで出汁をとる、要は韓国風の味噌汁なのだが、ケンタロウの韓国料理(風も含めた)レシピにどれもおいしいから作ってみてよとオススメできるのは間違いなく彼には、こころと体が同時に震えて血と肉が混じり合うくらいの感動を韓国料理によって/において味あわされた経験が何度もあるからなのだろう*3。食べることが好きなことだけが料理人になる唯一の条件であることをわたしは彼のレシピと彼の出演する料理番組に教えられた。ケンタロウと言えばこれ。次に紹介する、料理の初心者でも簡単に作ることができるレシピは、複雑怪奇な塩分気分をキムチで見事に実現した我が家の定番レシピ十傑に入ること間違いなしの強者である。


肉キムチ豆腐
知らなかった。わたしはこんなにも豆腐が好きだったのか。知らなかった。豆腐好きの延長で豆腐を使った料理にハマっていたとは思わなかった。確かにわたしは大豆のタンパク質を信頼している。ただの代用食、肉の代わりのものとしてではなく、求められれば肉の代わりになることができる豆腐の力を常に欲している。豆腐は豆腐の肉である。植物性タンパク質によって構成された肉である。この地上のかたちあるものはすべて、動物であろうが植物であろうが、細胞レベルで見ればそのほとんどがタンパク質で出来ている。タンパク質をアミノ酸に分解して吸収したエネルギーによってタンパク質を形成し細胞分裂をくり返したその結果が、いや、形成しながら刻々と代謝しているタンパク質の運動そのものがわたしたちの胃であり肺なのである。などと考えながらこのレシピを料理をしているわけでも食べているわけでもないのだが、肉もキムチも豆腐も肉であることは、理論的にも経験的にもわかるような気がする。含まれるタンパク質の割合は、肉の肉も、豆腐の肉もそれほど変わらない。キムチの白菜も、もちろん肉である。


キムチハンバーグ
実はこのレシピも豆腐を使っているのだが、わたしがいままで作った豆腐ハンバーグの中ではこれがいちばんオススメである。えごまの葉を売っているスーパーはなかなかないので大葉を細く刻んでこんもり盛ったのと、粉唐辛子(チリペッパーでも一味唐辛子でも)を和えた大根おろしと一緒に食べれば、軽さと強さを、キレとパンチを同時に兼ね備えた正統派のボクシングスタイルのボクサー、若かりしころの具志堅用高のようなこのレシピの凄さをおわかりいただけることだろう*4。ハンバーグそのものが最初からオリジナルのない/オリジナルがありすぎるアレンジ料理なのでこのような素晴らしいレシピが生まれたのかもしれない。


白菜たっぷり煮込みハンバーグ
今年の冬は、夏終わりの台風による不作の鬱憤を晴らすかのように野菜の出来が良く、ことに白菜が素晴らしく、そして安いので作ってみたのだが正解だった。レシピにある、枝元なほみさんオリジナルの「ハヤシライスの素」の代わりにハインツのデミグラスソース缶を小鍋で温めて赤ワインを50ccほど入れてアルコールを飛ばしたものに、フライパンで焼いたちいさめのハンバーグと白菜の芯を入れて煮込んで仕上げに葉を加えてひと混ぜしたのをカレーのようにご飯と一緒に盛ってみたのだが、ひとくち食べるたびに感動した。肉に負けないくらい強い筋のある白菜もまた肉なのだと思った。葉と芯とである意味、骨付きの肉である(肉か野菜か、などと考えるのはもうやめようと思う)。ということで最後にジャガイモの肉のレシピを紹介する。このジャガイモは、実に食べ応えのある、肉らしい肉だった。


みそじゃがバター
言うならこれは、バターと醤油でシンプルに味付けされたジャガイモのステーキである。

*1:『今日のおかず』

*2:作りました。食べました。予想通り、いや、予想以上にぐっとくる汁だった。ほかの「冷蔵庫の残り物」でも試してみたい。

*3:『ケンタロウの韓国食堂』

*4:マツコ&有吉 怒り新党

朝までずっと流れているのに、誰にも聞かれずにいる音楽

ハラカミ・レイ[rei harakami]の音楽の偉大さは、和音の響き中のひとつの音として音をとらえるのではなく、或るひとつの音の中に別の音を響かせたことにあると思う。揺らぎとも、響きとも、ときには不安とも呼ばれるそれは音の効果ではなく、音のふるさとなのだ。彼が見出したその地平は、どこまでのひろがりを持つものなのか。それ以前に音とは「持てる」ものなのか。点なのか波なのか(ドゥルーズの言葉で言えば、線なのか)。認識できるものなのか。そのひろがりに限界はあるのか。人間の耳(=鼓膜やスピーカーのカーボン紙やヘッドフォンの共鳴板)しか持たないわたしたちには、びりびりと震えるだけで、いくら耳をすませてもその全体を聞くことはできない、音が音として認識される前の、揺らぎとも、響きとも、ときには不安とも呼ばれる音ではない音、音の関係が、たとえば『lust』と題されたアルバムののっけから、音の彼方から、音とは別の存在の仕方で鳴り響く。これほど徹底的に無神論者としての態度を貫くことで、もはや神のものでも人間のものでもなくなった(=神からも人間からも自由になった、そして誰のものでもなくなった)宗教音楽をわたしは知らない。
youtu.be
関係における、関係としての自由*1。それは予防接種を断固として受けず、ありとあらゆる細菌に、ウィルスに汚染され、内側から腐り始めた体を横たえ、滅びゆく肉としての自己を見つめる羊の最後のひとくち、その無駄な食事によって捕食される草原の稲科の植物にだけにふさわしい、たとえばそんな音楽である。丈の低い草のひろがりの中を飛び跳ね重なり合うちいさな放物線を描くバッタや蝶の住み処である草原の朝靄の向こうから、或るひとつのトーンが風となり、ひと息に海まで吹き抜ける。誰のものでもないことでしか、誰のものでもあるものになれないことを、その風に揺れる者たちは知っている("come here go there")。こっそりと工事現場で働く男たちを見ている、ひとりの女の子がいる。彼女はどうしようもなく、白を通り越して誰の目にも見えなくなってしまった透明な光を無駄に放出しているアドバルーン型の照明灯が好きなのだが、そんなことなど男たちは知らない。急ぎ足で操車場の線路を跨いで、どんなにオタクなひとたちだって乗ることのできない運転席が剥き出しの黄色い電車に飛び乗り、欄干にぶらさがったまま橋の下を行ったり来たりしているのを彼女が二時間も見ていたことなど誰も知らない("after joy")。買ったばかりのオートバイをすぐに転ばせてしまう気がして、気が気でなくて五分も高速道路を走っていられなかった、ガソリンスタンドのバイト仲間からアカオと呼ばれている高校生の、半端な不良の男の子は、灯りの落ちたサービスエリアの端の車の枕みたいな駐車場の石に腰を降ろして朝まで慣れないタバコを吹かして過ごした。目の前に、端が見えないほどおおきくてこんもりとした夜よりも暗い森があった。あとで地図で調べてみようと思った("last night")。明け方の台所を、それも流しの上の出窓の掃除をするのが彼女の癖だった。キャミソールの下は、強く引っ張ればいつでもすぐに穴が開きそうなほど薄くなった水色のショーツしか穿いてなかった。十階建てのマンションの十階に彼女はいるのだが、その全体が彼女の下半身であるかのように腰から下が重い夜だった。隣りの部屋に住む老人が、歯磨き用のプラスチックのコップを流しに置く音を聞く、ちょうどそれくらいの距離感で自分の腸の中を蠢く、さっき下の駐車場で別れたばかりのカレシと食べたうなぎの小骨を彼女は想像している。うなぎは夏に食べると胃もたれする。台所の出窓で芽を出したジャガイモの、しわしわの皮だけで作ったきんぴらごぼうをカレシに出しても、うまいうまいと言うだろうか。決してこだわりがあるわけではないこまこましたものを、出窓に並べ直し終えたときには妹の結婚式には出ない、おめでとうも言わない、誰がなんと言おうとこのタイミングで結婚してはならないと最後まで言いつづけようとこころに決めていた("approach")。ゴキブリが公園の真ん中を這いまわっていた。隣りのテニスコートの入り口に「不審者に注意!」と書かれていた。ずっと前からトイレに行きたくて、ここに来たのにトイレがなかった。どこに行けばコンビニがあるかもわからなかった。なんとなく猫がいるかと思って呼んでみた。いなかった。逃げたのかも知れないし、植え込みの下に隠れてわたしのことを見ているのかもしれないけど、にゃーと出て来ないのなら、いないのと同じだった。ゴキブリがテニスコートと公園を隔てる敷石に到達した。ミスチルを熱唱する姿の見えない男が公園の横の坂を猛スピードで駆け下りていった。わりと最近買ったばかりのスニーカーを脱いだだけで、たいした覚悟もないままそのままおしっこをして、足首の内側から足の裏にかけて濡れた靴下をぶんぶん回して乾かしながら家まで帰った。おかあさんが「水曜どうでしょう classic」を見ていたから、横に座って最後まで一緒に観た。来年のカレンダーを月ごとに、みんなに「おんちゃん、おんちゃん」言われているオレンジ色の丸い物体のきぐるみを着たひとと一緒にミスターがポーズをとって撮られていた。ゴキブリのことをおかあさんに言おうと思ったときトイレに立たれて、結局言わずにお風呂に入って寝ました。おしまい("first period")。

朝までずっと流れているのに、誰にも聞かれずにいる音楽を想像すると、なぜかハラカミ・レイの音楽がわたしの耳には聞こえてくる。誰かがそこにいようがいまいが、音楽、そのすべてのレイヤーは、すべての者たちと言われる以前のすべての者たち、目に見えるなにものかであること、すなわちいまここに存在することが受容の条件にならない者たちのために、耳をすませばいつでも鳴り響く。存在とは別の仕方で存在するもの、つまりは生まれながらの幽霊であるがゆえに、名前も住所も知らない誰かからの、名前も住所も知らない誰かに宛てた手紙の中に、ぺしゃんこになった蝉の死骸が挟まれていて、びっくりしたひとの顔を見ることはできないのと同じ不安の中にある。ただしげしげと蝉の死骸を眺めるだけで、そのひとが声ひとつあげなかったことも誰も知らない。誰も知らないはずのことだけが音楽によって/において救われる。音楽は見ている。すべてのものを同時に見ている/がゆえになにも見ていない。目とは別のものによって見ている。見ないことにおいて見ている。簡単なことだ。なにも難しい話をしているわけではない。手紙を読んでいるとき、その手紙を書いたひとの顔を、目を、わたしたちは見ずに見ている。面と向かえば五秒と見ていられないはずのそのひとの目をまじまじと、そしていくらでも、なんなら朝までだって見ていられる。視線を合わせていられる。それが音楽という経験、経験としての音楽なのだ。

「私は見ずに書いています。やって来てしまいました。あなたの手に接吻し、そして引き揚げるつもりでした。私は引き揚げるでしょう、接吻という報いなしで。けれども、私がどれほど愛しているかをあなたにお見せできたなら、私はそれで十分報われたことになるのではないでしょうか。あなたを愛していると私は書く、そのことをあなたにすくなくとも書きたい。でも、筆が欲望のままに進んでくれるかどうかわかりません。私が口でそう言い、そして逃げ出すだけのために、あなたは来てくださらないのでしょうか? さようなら、ソフィ、おやすみなさい。来てくださらないということは、あなたの心が、私がここにいるのをお望みでないということです。闇のなかで書くのはこれが初めてです。この状況は私に、とても優しい思いをいくつも吹きこんでくれるはずです。それなのに、私が感じるのはたった一つ、この闇から出られないという想いです。あなたの姿をひとときでも見たい、その気持ちが私を闇に引き留めます。そして私は話し続けます、書いているものが文字の形をなしているかどうかもわからずに。何もないところにはどこにでも、あなたを愛していると読んでください。」ドゥニ・ディドロ(ソフィ・ヴァラン宛、一七五九年六月一〇日) ジャック・デリダ『盲者の記憶』訳・鵜飼哲 所収

……大崎清夏「暗闇をつくるひとたち」を読みながら。

*1:ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築

〈ダメな女〉たちへ

芸能人は、多忙による擦れ違いで別れる。世間はそれ以外の方法で芸能人の夫婦を、あるいはカップルを別れさせてはくれない(多忙でなければならない、そして、擦れ違いでなければならない)。おしゃれに目覚めたばかりの中学生の女の子は、不自然なほど、ぴんとなった前髪をピンで横様に留めなければならない(ワンポイントは付いていてもいなくてもいいが、マクドナルドは三人以上で、できれば大人数で入らなければならない)。若くて生きのいい野心溢れるサラリーマンのおれの靴の先は四角に尖ってなければならない(これについてはノーコメントでお願いします)。

言わせて欲しい。こんなことを急に口走り始めるわたしをゆるして欲しい。わたしが、たまにだが連れて行かれるカラオケで歌う曲が、女性ボーカルの、それも〈ダメな女〉が〈ダメな女〉である自分を歌った歌しか歌えなくなってひさしい。最初はDJ HIROKAZに教えてもらってハマった古内東子の「心にしまいましょう」で、日本語の特異性というか癖というか、要するに早い話が悲しみを、そのどうしようもなさを引き受けたうえで、これ以上ないというほどしっかりとR&Bしているソウルフルなこの曲を歌うのは極めて難しく、ましてや男のノドや肺、鳩胸ならまだしもただ単にぶ厚いだけの胸板を持つわたしのような者が歌うのは、歌手あるいはボーカリストと呼ばれる特殊なひとたち、平井堅徳永英明ででもない限り不可能なのはわかっているのだが、不可能であるのを承知で、それでもわたしには歌う必要がある。なぜならわたしは〈ダメな女〉だから。

女ではないにもかかわらず〈ダメな女〉であるわたしだからこそ言えることだから言わせて欲しい。女でありかつ〈ダメな女〉であるあなたにはきっと言いづらいどころか、口が裂けても言えない、言いたくないことだと思う、思って当然だからこそ言わせて欲しい。〈ダメな女〉は最高である。特に、歌うと、よくわかる。わからないどこかで、わからないまま、ああ、わからない、どうしてわたしはこんなわたしなのか、なにをしても、誰と付き合っても、好きになれば即こんなわたしばかりがわたしになるのか、わからない、もう勘弁してよと絶叫しながらよくわかる。それでいい、いつもこんなふうに〈ダメな女〉のわたしでしかわたしであれないわたしであっても構わないどころか、いや、そうあるべきだ、誰もがわたしのような〈ダメな女〉であるべきだ、ていうかどうしてわたしのように、誰かを好きになって、そのひとと一緒になにかをしたくなって、ずっとずっとそうしていたいと思うのに、思っているのに〈ダメな女〉にならずに済むのかわからない。誰だって、たとえ女でなくて男であったとしても、誰も彼もが、そう、彼だって、いま付き合っている、愛しの彼氏の彼だって、わたしのような〈ダメな女〉であってくれたらわたしのこの悲しみの半分は消えてなくなり、まるで女同士みたいな温泉旅行ができるのに。おしゃべりしながらぷらぷら歩くように旅をすることが、旅するように生きることができるのに。などと淡い夢を見ずにはおれないからこそ言わせて欲しい。もう行かないで、そばにいて、と歌わせて欲しい。もう愛せないと言うのなら、友だちでもかまわないわ、と泣かせて欲しい。強がってもふるえるのよ、声が……。

ああ時の河を渡る船に オールはない 流されてく
横たわった髪に胸に 降りつもるわ星のかけら
もう一瞬で燃えつきて、あとは灰になってもいい
わがままだと叱らないで 今は
 (Woman "Wの悲劇"より 作詞/松本隆 作曲/呉田軽穂[=松任谷由実])

相米慎二が、あの短い、それこそ一瞬で燃えつき灰になる直前に歌った『風花』の〈ダメな女〉は、山奥の、来る予定のなかったペンションの食堂で、酔っぱらって手をたたき、やんややんや大騒ぎをする見知らぬ男たちを、ビールコップ片手に頬杖ついて見つめる。ダメな男はダメではない。右に左にと、なんでもかんでも対称的にできていると思ったら大間違いで、男である限り、ダメな男はダメではない。ダメになれない。安吾の言葉で言えば〈堕落〉が足りない。キルケゴールの言葉で言えば〈絶望〉が、人間的にいって、もはやいかなる可能性も存在しなくなるそのときを、深淵を見ていない。アメリカは男でありつづける限り、パレスチナという〈ダメな女〉の悲しみを、その愛の深さも浅さもない絶望を、ハイデガーなら〈運命〉と呼ぶであろう罪を、転落を知ることはないだろう。危険なことは百も承知で言わせて欲しい。できることならパレスチナは国家ではなく運動であるままでいて欲しい。インティファーダという偽の祭典のない、石は投げてもロケットはスデロット市に打ち込まない、もちろん胴のまわりに巻いたプラスチック爆弾を隠し持つような、昔といってもほんの十数年前の少年のような自暴自棄にもならない抵抗を、女のあがきを、絶望を見せて欲しい。〈ダメな女〉のままでいて欲しい。

なぜなら〈ダメな女〉は、ダメである限りダメではないから。〈ダメな女〉が本当に、とはつまり偽の意味でダメになるのは〈ダメな女〉でありつづけることを諦め、ダメでない〈ダメな女〉になると偽の決意をするときだから。男との、彼との関係を断ち切り、有象無象を退け、やおよろずの神に見守られ、支配も被支配もない、女だけの自由な国を、独立国を建設しようとまるでイスラエルのように欲望するときだから。そうではなくて、まどか☆マギカ暁美ほむらのように、永遠に永遠を盛るような、関係という名の内戦のさなかを生きて欲しい。男たちとの果てなき泥仕合を戦いつづけて欲しい。結婚なんて卒業式と同じで、ただちょっと自分の人生に区切りをつけて振り返りたいだけなのだから。そうでもしなければ、おとうさん、おかあさん、わたしを産んでくれて、育ててくれてありがとう、なんて言葉を口にする機会がないその機会は、その言葉は墓場まで持っていって欲しい。親不孝者だけが不幸な子供を産みも育てもしないのだから。ひとりで生まれてひとりで死んでゆく人間には、産むも育てるもありゃしないのだから。自分の人生がどんな人生だったかなんて、捨ててきた男たちのファンタジーの中で生きつづければいい(わたしには肉があり、肉のわたしには頭もあるし性器もある)。いつになってもずわずわで、かたちがさだまらず、こんな歳になってもまだ自分が誰だかよくわからない(いくつになっても娘で、女の子な気分でいるわたしを諦めさせるために「おばさんだから」なんて言えない、文字通り、死んでも言えない)。きょう一日、自分はなにをしたのだろう、なにかひとつでも納得できるまでしたこと、できたことがあるだろうかと、おでこに貼りついた言葉を手繰り寄せた途端に数珠つなぎの、物思いという名の底なし沼に足をとられ、このままずーっと自分はなにものにもならぬまま、なにも為せぬまま終わるのではないか、死ぬのではないかと震えぬ夜はない。

ああ時の河を渡る船に オールはない 流されてく
やさしい眼で見つめ返す 二人きりの星降る町
行かないで そばにいて おとなしくしてるから
せめて朝の陽が射すまで ここにいて 眠り顔を 見ていたいの