Naked Cafe

横田創(小説家)

批評

石の娘

先月、フットサルの練習にお呼ばれして、二十年ぶりにサッカーボールを蹴って、走って、ターンして、何度も転んで、膝を痛めた。わたしは膝を痛めた。わたしはわたしの膝を痛めた。痛めた膝はわたしのもので、ひどくわたしは痛みを感じていた。わたしの膝だ…

自分はどんな傷を負っているのか。いつどこで、どんな傷を負わされているのか。見つめる。それはなにも作家の仕事だけでなく、人間にだけ課せられたものでもなく、すべてのものに負わされている使命だと思う。わたしにとって、それはなにかを言うことでした…

君に届け

それはもちろんtwitterで、いま自分が思ったことを、ぱ、とその場でつぶやければいいと思う。それが一番いいと思う。などとこの場で、つまりはブログで、ぱ、とこんなことを書くことができるわたしが言うことではないかもしれないけど、あくまでもそれは、で…

その他のすべてのもの

国民経済学、すなわち富についてのこの科学は、同時に諦めの、窮乏の、節約の科学であり、そして実際にそれは、きれいな空気とか肉体的運動とかへの欲求さえも、人間に節約させるところにまで達している。驚くべき産業[勤勉]の科学は、同時に禁欲の科学で…

模倣の受難者

ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひ[隠ろひ]につつしづ心なけれ 茂吉 この歌を読みながら、ときに小さな声で口ずさみながら、わたしはこの歌を幾度も写生してきた。「イメージしてきた」と書いたほうが分かりやすいのだろうが、どうだろう、それで…

つねにしてすでに命は

わたしたちは、生きている限り、つねにしてすでに命に脅迫されている。この「つねにしてすでに」という副詞をわたしが使うようになってすでにひさしいが、としか言いようがないところにこの副詞の強度はある。「わたしたちは、生きている限り、命に脅迫され…

神と見紛うばかりの

ユリイカ2009年10月臨時増刊号 総特集=ペ・ドゥナ 『空気人形』を生きて作者:是枝 裕和,山下 敦弘,ペ・ドゥナ,宇野 常寛,佐々木 敦青土社Amazon10月13日発売の『ユリイカ(総特集*ペ・ドゥナ『空気人形』 を生きて)』に掲載されたエセーで、主にポン・…

他人の国

選挙という嫌な季節がやってきた。政治家の口からポピュリズムという言葉を聞くたびわたしは片腹痛くなる。ちゃんちゃらおかしい。ポピュリズムにのっとってない政治があるなら見せて欲しいと思う。それは選挙によって選ぶのではない政治家たちの政治で、い…

愛することは怒ることである

わたしのような愛し方をすることだけが愛することだとは思わないが、自分なりの愛し方が、いくら考えても見いだせないときわたしはどうしようもなく暗い気持ちになる。どのような愛し方であれそれがキリスト教の隣人愛と呼ばれるもの以上のものでも以下のも…

最後の詩

生活について考えることがほかのなににも増しておもしろいのは、水を抜いて水槽の掃除をするみたいに一度なしにするというか、リセットしてから改良したり、工夫をこらしたりすることができないからだと思います。すでにしてつねに始まってしまっているわた…

意志と自然の極北

わたしたち人間は意志する。意志しない人間など「人間」と呼ぶに値しないと言われるほどに意志する。つまり意志は人間にとって人間であることのあかしであり根拠である。当たり前だが、意志は自動的ではないし自然に準ずるものでもない。むしろそれに立ち向…

声の永遠回帰

ずっとむかしから、早逝したミュージシャンや伝説のバンドについて語るのも語られるのが苦手で、なぜかというと、正直、好きなミュージシャンやバンドについて語るひとたちのノリについていけなかったからで、けどそれは、なにもバンドに限った話でないこと…

イグアナの娘

女子にとって、この世界はつねに戦場であるがゆえに、いきおいどうしたって女子の文学は自然主義文学になる。だけど二葉亭四迷の言うところの「有の儘に、だらだらと、牛の涎のやうに書く」ような、ユーモアのない、単なる自己表現であってはならない、これ…

彼女の余白

余白はいつでも、わたしたちが思うより、ずっとひろい。余白というと、ノートの罫線のない部分のイメージがあるけど、それで言うなら余白の本当は、ノートも含めたテーブルの上にこそある。そしてテーブルが置かれたカフェの上に、カフェのある土地も含めた…

嘘でも言うこと、誰かを思い出すこと

嘘でも言うことが大事なことを知らないひとは、いかに「言う」ことが難しいか、困難なのかを知らないひとだと思う。それを言うなら、本当のことを言うことがいかに難しいか、その困難の中にこそ「言う」ことへの抵抗やの困難があるのでは? そう思うひともい…

緊張について(もしくは、欲望の節度について)

小学生のころ、いま思うと、どうかしてたのではないかと思うくらい、やたらとわたしは緊張していた。わたしだけではない。小学生は、とにかくやたらと緊張をする。そこに時代も個体の差もないように思われる。わたしが「緊張」と聞いて、まず最初に思い出す…

転調のためらい

たとえばクラシックと呼ばれるジャンルのピアノ曲のワルツだったとして、トン、タンタン、トン、タンタン、とベースを刻む左手が、何小節目かの「トン」で転調するのをためらうかのように、あるいは次のコードを踏むのを躊躇したかのように粘るその瞬間がわ…

これは、誰の、風景なのか

三人称で書くこと、書かれていることの意味。それはきっと、それを書きながら、そして読みながら、いま見ているこの風景は誰の風景なのか、誰の、どんな視線がわたしたちにこれを見せているのか、見ることを可能にしているのか、それを考えながら書くこと、…

女子の鎮魂歌

たくさんの女子の敗北を見てきた。どれひとつとして痛切で、こころの中が血の海にならないものはないくらい悲痛で、悔しくて、わたしは片時も忘れることができない。そしていまなお、これをこうして書いているいまも、女子は女子である自己と格闘している。…

時代の余白

「本当の自分」と呼ばれるものは、だいたいがだいたいにおいて、いや、すべてにおいて、どんな自分であっても暴力的なもので、この言葉には、自己の暴力を自己の外に向け変えることをよしとする神話(被害者意識)が働いている。同じように、男である自分/…

もてなしであり、こころであるもの

現代アートを積極的に見るほうではないが、ふと気づくと内藤礼の作品だけは見ていることに気づく。最初に見たのはテレビの特集で、いまも直島にある「きんざ」。より正確に言えば、古民家の壁と地面のわずかな隙間から水平に(!)差し込む光によって/にお…

見えるものを見ること、描くこと、思考すること

あるのではない。実はそこにないかもしれない。けど、見える。というより、あるのかないのかもはや問う必要も結論づける理由もないところに見えるものはあり、それは存在とは別の仕方で存在する/しない。つまり、見られる/見える。当たり前のことだが、わ…

なにも持たないあなたへ

なにも持たなくていい、ではなくて、なにも持たないのがいい。そう思うというより、どこかでこっそり感じているかもしれないあなたへ。たとえば、知識がなくてもいい、考えることはできる、とはよく言われることですが、知識がないほうがよく考えられるとは…

「関係性」という言葉について

いつから気になりだしたのか、もう定かでないが、どうしてもわたしは「関係性」という言葉が気になる。論文やエセーや小説で目にするたび、本当なら「関係」と言うべきところを「関係性」と言っているだけのような気がしてならない。もしそうだとしたら、な…

厳正に処罰すべき? 死を無駄にしないためにも?

昨今頻発している通り魔のような無差別殺人事件に対して識者が「(犯人を)厳正に処罰すべきであるのは当然として」もしくは遺族が「(被害者の)死を無駄にしないためにも」と発言するとき、そこにはどんな力が、無意識が働いているのだろうか。わたしがい…

一概には言えない

『二十歳の微熱』や『ハッシュ!』の監督として知られる橋口亮輔・監督の『ぐるりのこと。』がいま渋谷や銀座で、首都圏各地で公開中ですが、彼の作品の中で唯一観ていなかった『渚のシンドバッド』をDVDで観てから、シネマライズで観てきました。やはり…

天気予報のように

言葉の直接性。わたしはそれを「風景としての感情」と名づけた認識の場において/によって、意識のあり方をあらわすものとして考えてきました。言い換えれば、風景としての感情に結びついたとき、言葉はわたしたちにとって直接的なものになるのです。いまも…

子供の映画

なにも母や父が特別なのではない。家族というものはやはり大切で、自我の形成に決定的な影響を及ぼすのでもない。ただそれは連続している。どこからどこまでが自己で自己でないのか、まだ確立していないのが子供なのではなく、とりあえず母や父などよゆうで…

死者の数ではなく

ひとひとり死ねばそれでもうじゅうぶんである。あとは何人死のうが死ぬまいが、違いをわたしは知ることができない。巨大な自然災害を前にして、わたしたちはその圧倒的な数字に驚かされるばかりだけど、だからこそ、とわたしは思う、わたしは0と1しか数字…

四人のマウマ

「パラレルワールド」という言葉が、その概念が、物理学の量子論のレヴェルでも思弁的な哲学のレヴェルでも文学のレヴェルでもわたしは嫌いで、なのになぜこんなにも多くのひとを魅了し、そういう思考をせずにおれなくさせるのか、ずっと考えてきました。も…