サルトル―失われた直接性をもとめて (シリーズ・哲学のエッセンス)
- 作者: 梅木達郎
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ヘーゲル的な弁証法的止揚とは真に何であるかを、我々はおそらく依然として知ってさえいないのであり、否定性とは何であるかをおそらく我々はまだ知らないのです。それを学ぶためには、その心臓部の中に飛びこまねばなりません。ですが、この心臓部は、あえて言うなら、キリスト教的な心臓であるという怖れが十分にあるのです。(『神的な様々の場』所収「キリスト教の脱構築」訳・大西雅一郎)
言葉という間接的かつ消極的、つまりは否定的なものがいかにして直接的かつ積極的、つまりは肯定的なものとしてその自由を獲得し復活したのか。洗礼者ヨハネはかたくなに自分がメシアであることを否定します。この否定性、言葉の運動、意味そのものがキリスト教の誕生、その起源なき起源をイエスというあるひとりの男の奇跡、その物語として刻印したのです、「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と線的な時間を、前と後ろを、その観念を脱構築することで(ヨハネによる福音書 1.15)。
"わたしの後から来られる方は、わたしよりも先におられた方である"……これこそが「表象」の定義なき定義、その宙吊りであり、このときからもはやわたしたちは「現象」という言葉、その発明なくしてこの世界を知ることも語ることもできないものにされてしまっていたのです、つまり「近代」はこのときすでに始まっていた。ヨハネによる福音書。イエスというあるひとりの男に最も愛されたとされるあるひとりの使徒による手記、旧約聖書のパロディ(旧訳「初めに、神は天地を創造された」=新約「初めに言[ことば]があった」)、アナロジーに満ちたこの福音書がいまなおもっともキリスト教徒たちに読まれる理由もそこにあるし、メシアという待たれるものよりさらに後から来るもの、いまなお新たな言葉で語られることを、その発明を待たれつづけているもの、つまりはフィクションであり文学であるからこそメシアの誕生以前、その到来より先にあるものなのです。つまりキリスト教の起源には作者ではなく作者をすでにしてつねに否定し反復している読者がいる。文学に起源がないのは最初から作者が不在だから? 読者だけがつねにしてすでに作者であり、待っている、"待つ"の現在分詞型が文学でありその運動だから。
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