Naked Cafe

横田創(小説家)

実践的、あまりに実践的な風景

肯定と否定を力(への)意志の質として考察した場合、この二つのものは包括的な関係にあるのではないということがわかる。否定は肯定と対立するが、肯定は否定とは異なる。肯定を、肯定自身のために否定と「対立する」ものとして考えることはできない。そうすれば、否定を肯定の中に入れこむことになるだろう。対立はたんに否定と肯定の関係なのではなく、否定としての否定の本質である。そして、差異は肯定としての肯定の本質である。肯定は自己に固有な差異の享楽であり、戯れであり、否定は自己に固有な対立の苦痛であり、苦役である。だが、肯定における差異のこの戯れとはいかなるものであろうか。肯定は最初は多、生成、偶然として定立される。なぜなら、多は一と他との差異であり、生成は自己自身との差異であり、偶然は「万物のあいだの」差異あるいは配分的な差異だからである。ついで肯定は二重になり、差異は肯定の肯定、つまり第二の肯定が第一の肯定を対象とする反省[反映]の契機の中に反映[反省]される。こうして肯定は倍加される。第二の肯定の対象として、肯定はそれ自身肯定される肯定であり、倍加された肯定であり、最高の力にまで高められた差異である。(ジル・ドゥルーズニーチェと哲学』第五章 超人。弁証法への敵対 訳・足立和浩

>否定は肯定と対立するが、肯定は否定とは異なる。肯定を、肯定自身のために否定と「対立する」ものとして考えることはできない。そうすれば、否定を肯定の中に入れこむことになるだろう。……例えて言えばこういうことです。「好きではない」は「好き」と対立するが、「好き」は「好きではない」とは異なる。つまり肯定を「好き」とするなら否定は「嫌い」と考えがちですが、そうではなくて「好きではない」、すなわち「好き」の反作用、反動なのです。わたしたちは「好き」の肯定する力、その能動性に気づきはしても「嫌い」に反映している同じ力、肯定の肯定、最高の力にまで高められた差異を見過ごしがちです。だから「みんなが履いてる、だからわたしは履かないという選択肢はアリだけど、履くことを躊躇するのはナシ」などとわたしは別の書き込みのなかで書いたのかもしれません。みんなが好き好き言っているものをわたしは別に好きではないと感じ、ときにはそう口にすること。それは確かに大いなる文学的契機であり、わたしたちに認識することを、するのではなく見ることを、この世界を、そして自己を思惟することをうながす否定的な力[ニヒリズム=無への意志]です。ブログのプロフィールの趣味の項目に「人間観察」と書いている女の子であれば多かれ少なかれこの反動的な力、ニヒリズムのなかにあると考えたほうがいいででしょう。好き? 嫌い? 別にー、好きじゃない、ていうかどうでもいいが口癖で、学校を休んでセンター街を、竹下通りをさまようこともしばしば。文学的、あまりに文学的な風景。小説や映画によって/において描かれすぎてactualityを完全に失ってしまった物語。自分は違う、みんなと違うという、みんなと同じ思い込み。いまこそ文学を認識し、その限界確定、言葉にすることが、思惟することが、無化する力、無への意志、ニヒリズムが彼女には必要なのかも!!! 言葉の原子爆弾!!! 壁という壁、目に見えるすべてのものが取り払われたとき"文学のふるさと"が見える!!!

>対立はたんに否定と肯定の関係なのではなく、否定としての否定の本質である。そして、差異は肯定としての肯定の本質である。……否定とはなにかを肯定しないことではありません。それを対象化し、認識し、無化することです。すなわち言葉にすること。親なんて、学校なんて、勉強なんて。それまで距離をあけずに連続していた、内在していたものたちから身を引き剥がし、生理と偽り体育をさぼって一生懸命校庭を走る同級生を「馬鹿みたい」と眺めること、そして日記を書くこと、図書館に、本のなかに友だちを求めること。それはいい。それはそれでかまわないどころか自由への大いなる契機であることはさっきも書いたとおりだけど、問題は、この否定的な力ををいかにして肯定的な力に転化させてゆくか。例えば大学に行く/行かないでも就職する/しないでもない思考。対立ではなく差異。単に異なる或るひとつのものとして自己を見出し解放すること、すなわち自由を獲得すること。それを上のテキストのなかでドゥルーズは「肯定は二重になり、差異は肯定の肯定、つまり第二の肯定が第一の肯定を対象とする反省[反映]の契機の中に反映[反省]される」と言っているのですが、驚いたことにそれを可能にしているのは反省=反映、つまりは無への意志(……フロイトはこれを「死の欲動」と名づけました)。意志の不可能性、必然性の認識、ニヒリズムだけが肯定の肯定としての反省=反映を、最高の力にまで高められた差異を可能にするのです。肯定に対立する否定を否定するのではなく、否定によって/において肯定すること、肯定を肯定すること。肯定の二重化、倍加された肯定、最高の力にまで高められた"差異と(しての)反復"、すなわち永遠回帰。わたしはこれを「演技」と言います。みんなが好き好き言っているものを嘘で、ノリで、大はしゃぎして、なにもかも忘れて「好き!!!」と言うこと。そこに距離があることに気づいた衝撃、けだるさ、かったるさ、子供のころのように素直に気分を共有できずにみんなと一緒に遊ぶことができなくなった自分を乗り越えるのでも、克服するのでもなく、距離そのものを愛すること。言葉という本質的に否定的な力によって/おいて作用するもの、感情、間接的なものに間接的なもので直接触れること、触れられること、会話をすること。好きなものを好きと言うように嫌いなものを嫌いと言える? 愚痴ではなくてはっきり言える? 嘘でも言うべき、言うべきときは死んでも言うべき、言葉にすべてを賭けるべき。言葉による/における自己破壊。それが生成、自己の復活であり、自己を認識し、距離を置くことが遠く離れた他者としての、死者としての自己に近づくことに、関係すること、すなわち実践することになる力。言わなければ、言ってくれなければわからないのは他人の気分だけではなく、むしろ自分の気分こそ言わなければ、他人のように言ってくれなければわからないし、言えばそうなる、やばいくらいそうなる、死にそうになる? みんなと一緒に街に出てはじめて今日の気分を知るのがわたしという他者。わたし以外のすべてのものがわたしを決定している、その全責任をとらされる苦役、対立の苦痛、受難を情熱に変えるお馬鹿な力、意志と(しての)必然、自己と(しての)他者、永遠回帰。あらかじめ好きなものがあるのではなく、好きなものを好きと言うこと、それ自体が好き、そのノリが好き。好きと言えるあなたが大好き。好きの好き、つまり第二の好きが第一の好きを好きと言う瞬間のなかでわたしたちはそれを好きになる。好きになってはじめてそれはある? あることがなることになるそのつどこの世界が解体すると同時に復活する。実のない話で花咲く会話。朝まで話しつづけてもまだ話したりないなんて、どこかおかしいんとちがう? ほらもう障子がまっ白!!! 窓の外で鳥がちゅんちゅんしてる!!! 魂を天井近くに置き忘れたままソファで眠りこけているあの子が実は一番やばい!!! 実践的、あまりに実践的な風景。

有限性が無限性に対する限定者であるのと同じように、可能性に対してこれに対抗するものは必然性である。自己が有限性と無限性との綜合として措定され、いまから生成しようとして、可能的ニ存在する場合、自己は空想を媒介としてみずからを反省するが、それによって、無限の可能性が表れてくる。自己は、可能態トシテ、必然的であると同様に可能的なものである。なぜかというに、自己はむろん自己自身であるが、しかしまた、自己自身となるべきものであるからである。自己が自己自身であるかぎり、自己は必然的なものであり、自己が自己自身になるべきものであるかぎり、自己は可能性である。(セーレン・キルケゴール死にいたる病』訳・枡田啓三郎)

ニーチェと哲学

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ニーチェと哲学 (河出文庫)

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死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

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