Naked Cafe

横田創(小説家)

朝よりもっと早い朝

気づけばいつもなにかを待っている。たぶんそれは文体[style]と呼ばれるもので、そのときどきの、いまのわたしのすべてであり、その"いま"を除くすべてのわたしの解放のとき。ゆえにその"いま"だけは救われない。文字通り"救いようがない"。現実的なもの、そのすべては思考によって/において否定されても思考それ自身は否定されずに残るから。定義の上でも、事実の上でも、思考そのものを思考することはできないのです。ここにわたしたちの(理性の)悲劇は存在します。解放するものはその解放以外の解放を、思考の仕方を知らないのです。たとえ自分の母親の首をノコギリで切り落とすことになったとしても? 機能は失っても身体という必要性からは確かに解放されたその腕に白いスプレーでペイントをほどこし鉢植えにする、などという古式ゆかしい狂気のstyle、まるでどこかで読んだことがある小説(裸のカフェ?)のような形式を強制的に選択させられ必要にからめとられて、結局は自由に身動きがとれなくなったとしても。わたしたちは自分自身を救うことはできても救うことそれ自身を救うことはできない。だからいつの時代も救世主と犠牲者は同じ主体なき主体において語られるのです。わたしは「なぜ他人を救ったのに自分を救えない? 十字架から降りて自分を救ってみろ!」とユダヤの人々にののしられたときのイエスの態度を、ゴルゴダ丘を、たとえばそんなふうに解釈しています。イエスの十字架、それは彼の四肢や脳髄ではなく彼の思考であり、すべてのかたちを、形式を否定するための形式なき形式なのです。それを「去勢」と呼んでも「止揚」と呼んでもかまわない。いずれにしても歴史的なもの、事実と呼ばれる存在者による/における出来事、そのすべてを理念化する言葉の働きであり、その力であることに変わりないから。思考とは解放そのものであり、有限なもの、そのすべてを無限化する絶対者であるから、逆にもなにも有限なのです。言葉によって/において否定し止揚することは単に保存することでも捨て去ることでもありません。捨て去ることで保存する運動、忘れることで記憶する思考、割れ鍋に蓋? 自己からの乖離と回帰が同時に起こる、無限なものの有限なものにおける反省でありその生成なのです。ただ文体だけが、厳密には精神であるとも身体であるとも言い切れないこの形式なき形式、魂だけがその有限性によって/においてこの世界を無限化する。朝よりももっと早い朝。気づけばわたしはいつもなにかを待っている。だけどいつまで待っても、わたしがそれを待っている限り、それはわたしのもとに訪れない。思考している限り、思考そのものを思考することはできないのだから。イエスの死後、そして復活するまでの三日間。文体と呼ばれる、それ自身解放であるがゆえに永遠に解放されることのないこの十字架は、時間=空間に支配されたこの世界から自由であるがゆえに時間=空間というアプリオリな観念から、思考から自由になれない。だから、気づけばいつもなにかを待っている。朝よりももっと早い朝。わたしはあなたのことを考えている。十年たっても、二十年たっても、一秒だって時の流れることのないこの自由はわたしを自由にさせてくれない。朝よりももっと早い朝。わたしはあなたのことを考えている。自由にならないそれだけがわたしの自由であり、理性であるその限りにおいて。

福井康貴が自殺しました。その名をいまここに刻みます。