Naked Cafe

横田創(小説家)

キリンは首の長い動物である?

言いかえると、尺度によって測られるべきものが、吟味に堪ええない場合には、その吟味の尺度がかわるのである。吟味は知の吟味であるだけでなく、尺度の吟味でもあるわけである。(G.W.F.ヘーゲル精神現象学』緒論 訳・樫山欽四郎

キリンは首の長い動物である。

たとえば、この概念と呼ぶ必要すら感じないほど抵抗感なくすっと入ってくるこの一行は、当然のことながら、ほとんどなにも言っていません。「意味のないひびきであり、ただの名前である」と、この本の序論を書いたころのヘーゲルならきっと言うでしょう。でもそれはこの概念が特に目新しくないからでも、突飛で斬新でないからでもなく、ましてや一般的だから意味がないのではなく、「キリン」という主語の尺度である「首の長い動物である」という述語が吟味される契機が、まだ言う前からすでに失われてしまっているからです。主語が主語として固定され、つまりはキリンがキリンであることはもはや疑いえない、言う必要がない? その証拠としてしか機能していない「首の長い動物である」。ゴダールが言葉と言葉、映像と映像、言葉と映像、ありとあらゆるイメージとその概念、主語と述語の関係において、なにがあってもゆるさないもの。それはその距離が、関係それ自身が失われることであり、主語によって述語が、述語との関係において主語が動揺し、互いの存在を消し合い、他なるものを自己とする自己に帰る、意味となる契機が失われることです。それとは逆に、一度読んだだけではすんなりと理解することができないどころか、これ間違ってない? 誤植かなにかとしか考えられない、ふつうには読むことができない一文を、むりやりであれ、しかたなくであれ、並々ならぬ執念であれ、行きつ戻りつ、何度も何度も読み返すとき、わたしたちは主語のみならず主語を測る尺度であるはずの述語の概念(の把握の仕方)そのものを吟味し直すことが要求されているのです。たとえば、同じヘーゲルの本の中から引用すれば。

精神的なものだけが現実的なものである。

もちろんヘーゲルも、そこに距離があることがわかっているので「現実的なもの」に傍点が振られている(原典ではイタリックになっている)のだけれど、「現実的なものである」という述語が理解できないために投げ返され、「精神的なもの」という主語そのものを吟味し直してみるもやっぱり理解できないからもう一度「現実的なもの」に立ち向かうものの、わかるはずもなく、わたしたちは手がかりを完全に失い、自分が窮地に立たされていることを知るのです。このときわたしたちに求められているのは正確な読解力でも知識でもなく、むしろ馬鹿になること、押し流されること、むしろ喜んでだまされること、言葉の中の言葉になること、新たな関係を取り結ぶこと、見るのではなく見られること、見つめ返すこと。なにかを知るために読むのでも見るのでもなく、なにかをなにかとして把握していた、理解していたみずからの知の起源を奪い去り、単なる発明、思い込みにすぎないものとして忘れるために読むのです、見るのです。それがゴダールの映画における/による意識の経験であるとわたしは考えています。……それではまもなく、言葉の映画の上映が始まります。タイトルは、キリンは首の長い動物である?

ではなく、キリンは進化論の犠牲者である。あの首の長さは進化論という神の奇跡を否定するための学の奇跡にされてしまった。精神なき精神、知の奴隷たちに説明し尽くされてしまったキリンの首の長さにもはや驚きはない。つまり、驚きを消し去るために学はあるのか。「そうではない」と、あの長い首は言う。「長いと言われれば確かに長いかもしれない。けど、自分では自分の首を長いと思ったことはないし、長くて便利と思ったことも不便と思ったことも一度もない。ていうか、長いって、なに? 短いがなければ長いと言われることもないのだろうけど、それではまるで長いは短いの奴隷みたいだ。動物ってのは本来、本質的には首が短いものであるはずなのに、おまえの首だけは非本質的に長いと言われているみたいだ。そうなのか? 非本質的にわたしはわたしであるのか? キリンであるのか? ていうか、わたしはキリンであるのか? 首の短いキリンがキリンでないなら、あの黄色と白と黒の幾何学模様はどうなる? あれはキリンのしるしでないのか? 腫れぼったいまぶたの下のつぶらな瞳はどうなる? 自分でもなんであんなものが目の上にのっているのかわからない毛の生えた突起物はどうなる? キリンという、キリっとリンとしたこの名前はけっこう気に入っているんだけど、どうすればいい? なんと呼べばいい? 呼ばれればいい? 長い、黄色、幾何学模様で、腫れぼったい、つぶらな、毛の生えた、キリっとリン。どれもわたしであってわたしでないような気がする。わたしであってわたしでないものだけがわたしを形づくり、キリンであってキリンでないものだけを「キリン」と呼んでいいような気がする。たとえばわたしは草と葉しか食べないから、草と葉が自分であるような気がする。といっても、草や葉を食べない自分を想像することはできないのではなく、草や葉と共にないわたしはもはやわたしである必要はないような気がする。この際、首の長さなんてどうでもいい。出る幕じゃない。まだ首が短かった、進化する前の自分の祖先と言われるもののことなど考えたくない。わりとどうでもいいかも。むしろ『キリンもゾウも動物である』という一行のほうがワクワクするし、なんだこのジッパヒトカラゲ感はって怒りながらもニヤニヤしてしまうかも。とてもじゃないけど自分と同じであるとは思えないあんな形と、馬鹿でかいものと、自分が同じものだと、同じ類だと、動物なのだと言われたほうが、なんか言われた感じがするかもしれない」 

ということで、たとえばキリンはゾウである。同じでないものが同じになるときにだけ感じられるこのエクスタシー。存在が失われてもなお残るもの、残されているのに失われたもの、失うことで生きるもの、精神的なものだけが現実的なものなのだから。

岸辺
JLGは立ち止まり、ヘーゲルの『精神現象学』の序論の一節を書きつける。
JLG 精神が力を保つのは、否定的なものを正面に見すえるから。(砂州の両岸を指さして)フランス王国。そこにとどまるから。(『JLG/自画像』シナリオより 訳・杉原賢彦)

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精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))

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精神現象学〈下〉 (平凡社ライブラリー)

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