Naked Cafe

横田創(小説家)

熱量だけがそこにある

10月25日発売の『ユリイカ11月号 特集*ドストエフスキー』のアンケート「永遠のドストエフスキー」に文章を寄せています。アンケート、といっても、もはやエセー、論考並の分量を掲載していただきました。

ユリイカ2007年11月号 特集=ドストエフスキー

ユリイカ2007年11月号 特集=ドストエフスキー

「あなたが最初にドストエフスキー作品を読んだのはいつ」とか「ドストエフスキー作品で一番好きなキャラクターは誰ですか」などという質問に答える四項目からなるアンケートなのですが、ほんと、自分でも驚くほど筆が止まりませんでした。確かドストエフスキーについて公式の場で書くのは初めてだと思うのですが、……などと書きしつつ、またしても語り始めてしまうほどなにかを言いたくなってしまうのがドストエフスキーなのだと理解していただくのが一番いいかと思います。と、こんなふうに、ドストエフスキーについてわたしがなにかを言ってもすぐに否定される熱量だけがそこにある。いつも誰かがドストエフスキーの話をしている、あーだこーだ言って盛り上がっている。ジャン・ジュネの晩年、その枕元にはつねにドストエフスキーニーチェがあったように。次はひさしぶりに『罪と罰』を読み直す予定です。でもその前に『作家の日記』の全巻を買い揃えなくては! ああ! 絶版になる前にすべて買っておくべきだった!

二本の椰子の木の新緑のあいだから眺めた場合、秋になって黄ばんだ二本の木のあいだから眺めた場合、張り渡した紐にかけた二枚のタオルのあいだから眺めた場合では、空はけっして同じ青さではない。……ジャン・ジュネ『恋する虜』訳・鵜飼哲

たとえばわたしはこんなところに"ドストエフスキー"を感じたりします。この世界を見る角度が変われば、違うように見える、のでも、変わる、のでも、ずれる、のでもなく、同じではない。同じであっても同じではない、ではなく、単に、同じではない。同じではない。ドストエフスキーは小説を通していろいろな角度から空の青さを描いたのではなく、同じではないものとして描いたのですらなく、同じではないそれ自体を描くというより経験したのだとわたしは考えています。この世界は見る角度によって違うように現象するのではなく、それが違うとも違わないともわからぬかたちで、比較不可能なまま、ただひたすらに同じではないものとして、起源も本質もないもの、無根拠なものとして、まるで孤独な発明、オオカミ少年の命がけの嘘のように現象はある。そのとき世界がそのようにしか見えなかったのでも見えたのでもなく、それが世界であるとしか思えない。ほかに世界があるなんて考えられない? 考えてもいない。現象のなかでは、もはや見るという距離それ自体が失われているのです。もはや見てなどいないし考える余裕なんてない。現象は悲しいまでに経験なのです。

天気は上々だった。世界はぶち壊れていた。空はよそに存在していたが、ここ、まだ残っているものといえば諸々の機能ばかりのこの場所には、ある説明しがたい安らぎがあった。……ジャン・ジュネ『恋する虜』訳・鵜飼哲

恋する虜―パレスチナへの旅

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