Naked Cafe

横田創(小説家)

死に化粧

いま、エロさ、エロい、という言葉が好きです。それは、目に見えないものを見る、という言葉と同じで、書けばすなわち嘘になります。忘れたい、と言うことで、言うことの中で、忘れられないなにかのように。

正直、わたしの小説のことはよくわかりません。でも「若いころの大江健三郎」についてなら、ひとつだけ言えることがあります。彼の初期作品群(「奇妙な仕事」「死者の奢り」「飼育」「芽むしり仔撃ち」「夜よゆるやかに歩め」「セブンティーン」「日常生活の冒険」「個人的体験」など)にとっての、エロさ。それは、死体、という言葉抜きには考えられないということです。

たとえば、死姦、という言葉も、行為もありますが、この両者は他方によって/においていのちを、意味を与えられ、互いに浸透し、関係し合うことで、ぎりぎりのところで救われています。死姦が生姦の本質であるように、わたしたちは、生きた体、ではなく、死体を食べて生きています。死食です。文字通り、死肉を食らって、死体と交わり、わたしたちは生きているのです。だから死体を忌み嫌い、タブーにすることは、ありとあらゆる生きるを、関係するを、拒否することになります。

だからわたしは、料理、という言葉が好きです。化けの皮は、剥がすためではなく、剥がされぬよう必死で努力するためにあります。または、剥がしたらのっぺらぼうな顔だけ残るのが化けの皮です。盛りつけがてきとーな料理は死体によく似ています。化粧することを禁止された朝の電車はきっと女たちの死体を運ぶことになるでしょう。なのに男たちはそれを求める。すっぴんとか、処女とか、清楚とか言って、ありもしない、実は単なる死体のそれを求め、女たちも、できるだけその期待に応えようとする。正常な男女関係と言われ思われているほとんどすべてのことが、わたしには倒錯に見えます。

たとえば、『あらしのよるに』というアニメを馬鹿にするのは実に簡単なことです(きのうの夜、テレビで偶然観ました)。それは「言葉ではなんとでも言える」という罵詈雑言に似て、破廉恥なまでに現実的です。けどその現実が現実でないことを、わたしは知っています。嘘だけを現実として、わたしたちが生きていることを知っています。現実ではなく嘘、でも、嘘ではなく現実、でもなく、嘘だけを現実として。

料理は味だけではなく見た目も大切で、香りももちろん大事? ノー!!!!!!!!!! 見た目と香り、それだけが料理です。あと、誰と食べるか、食べているかが重要。というか、すべてかもしれない。味なんて、仮にもし純粋な味なるものがあるとして、そんなもの、どうせ死体の味がするだけです。セックスなんて、穴に棒を差し込み、出したり入れたりするだけの行為になります。いのちなんて、ただなにかがわさわさ、得体の知れないものが増えてゆくだけです。

死に化粧は、おそらく化粧だけではなく、すべての行為の、意味の基本です。わたしはヴィスコンティの『ベニスに死す』のラストシーンを思い出しています。汗で溶けて流れるおしろい。かすむ視界、揺れる風景。わたしは、エロい、と思う。目に見えないものを見る、という言葉と同じで、書けばすなわち嘘になると知りつつ言わずにおれない。美しい、という言葉が好きです。楽しい、という言葉も好きです。やばい、も好きです。