Naked Cafe

横田創(小説家)

感情としての風景

感情でありながら、いやむしろ感情であるからこそ風景であり、その風景は感情の反映でも、投影でも、比喩でも象徴でもなくて、そのもの、なんてレトリックではいまこれを書いている自分を騙し、納得させて、信じさせることなどできない力が、或るひとつの、いまここに存在し、目に見えるすべてのものを消し去るほどの圧倒的な懐かしさがそこにはかならず働いています。わたしたちは、その意味を知る者も知らぬ者も、この"ない"ことで"ある"場所、場所なき場所を「意識」と呼び、ほかならぬこの言葉自身によって/において思考させられてきました。いや、これを書いている=読んでいるいまも、きっと、思考させられているはず。

感情としての風景。それは意識のことです。それは自己と自己ならざるものを廃棄すると同時に保存するもののことです。自己と自己ならざるものという単純にして破廉恥な線引き、思考を、その分水嶺を切り崩し、言葉がそこから流れ出すことをやめさせ、湖を作り出すと同時に枯渇させる、水のない湖、稜線のない山、けっして見ることのできない風景のことです。

感情としての風景。それは海であると同時に山である地形のことであり、その海岸線は砂漠のように視界の果てまでひろがっています。かたちあるすべてのものには線があり、その線と線に囲われたところに面があり、面と面のあいだに充実したものがあるという全体主義的、生命主義的な思考のいっさいを廃棄した視線のことであり、その目には、かたちあるすべてのものは海岸線に打ち上げられたゴミに見えることでしょう。

外だけがいつも充実している。目を奪われ、実感を失い、死を賭して眺める風景だけが「わたし」であり、わたしとは、外の中にあるこの信のことであり実践のことです。ともすればわたしたちが「感情」と呼ぶそれは風景としての感情の反映に過ぎず、投影されたこの世界を後生大事に「わたし」として保存している根源、すがりつき、そして懇願している奴隷の涙であり、歌うことを忘れた詩人の生命の保険です。

「わたし」たちを包み込み、そして奪い去る風景だけがいつも「わたしの」感情なのです。もう二度と見ることのできない過去の風景、死ぬまで待っても見ることのできな未来の風景。懐かしいのは、いまに始まったことではありません。出ることも、帰ることもできないふるさとは、わたしたちを孤独な預言者にします。旅することだけが住むことになり、思い出すことだけが生きることになったとき、わたしたちは、ほかならぬわたし自身の傍らにいます。オマエヲ包ムいま・ここニオマエハイナイノダ*1と、わたしはわたしに言う。隣人だけがわたしなのです。(2008_01_09 この正月の四人の、西伊豆への、そして牧水の歌への旅のしるしとして)

ベンヤミンの通行路

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