Naked Cafe

横田創(小説家)

詩=私

端的に言って、詩とはなにか、という問いになるのかならないのかはなはだ心もとない問いは、わたしたちをドツボにはめます。ならやめておけばいいのに、ほかの多くのドツボがそうであるように、ふと気づくとわたしたちはまた「詩とはなにか」を語り始めているのです。ほんと、困ったものです。

事実、わたしもよく「詩だねー」と口にしています。そしてすぐに観察をする、いまここでなにが起きているのか自分の感情(というか、自分という感情)に耳をすます癖がついています、いま自分がなにをもってそれは詩だと感じ主張したのか。あー、わからないーと、思います。けど、なぜか、これは「詩だねー」と、言わずにおれないのです。どうしようもなく、私は私なのです。

だからもうわたしは「詩とはなにか」という命題そのものには興味がないのかもしれません。逆にむくむく興味がわいてきたのは、それが詩であると主張するとき、もしくは主張しないときのわたしたちの「詩とはなにか」という問いにならない問いをめぐる思考の身振りというか軌跡について、です。当然と言えば当然ですが、谷川俊太郎という詩=人は、自分が書いたそれが「詩である」とは主張しません。むしろ真逆でしかたなく、どうしようもなくそれは「詩である」ことを受け入れるようにしてもう何十年も詩を書き継いできたのでしょう、自分が書くものがどうしようもなく「詩である」ことを受け入れることそれ自体を詩にして。あー、これは詩だと、今度の新作『私』を読んだとき、わたしが思うほかなかったように、おそらく、たぶん、谷川俊太郎も、あー、これ詩だと、これは「詩である」と諦めているのではないか。

ときに諦念は大いなるものに触れます。つまり「詩とはなにか」という問いにならない(と、いまは断言するほかない)問いは「私とはなにか」という問いにはならない(と、ずっと前から断言することができた)問いと寸分もたがうことなく重なるのです。実存主義と呼ばれた哲学者たちの仕事をあらためて思い出すまでもなく「私」とは、主張するものではなく、ただひたすらに受け入れることしかできないものなのです。そうです、詩とは私のことなのです。

詩とは私である。という意味で、谷川俊太郎の新刊のタイトルは『詩』でもよかったのではないかと、わたしは考えています。つまり「詩とはなにか」と考えることは「私とはなにか」について考えさせられることなのです。なぜならそれ(詩=私)だけが、わたしたちには考えることができない考えるという運動そのものなのだから。