Naked Cafe

横田創(小説家)

死者の数ではなく

ひとひとり死ねばそれでもうじゅうぶんである。あとは何人死のうが死ぬまいが、違いをわたしは知ることができない。巨大な自然災害を前にして、わたしたちはその圧倒的な数字に驚かされるばかりだけど、だからこそ、とわたしは思う、わたしは0と1しか数字を知らないし、知りたくないと。

もし凶悪な殺人犯と言うのなら、殺した人間の数ではなく、0か1かで考えて欲しい。未曾有の大災害と言うのなら、死者の数ではなく、肉親を、友人を失い泣き叫ぶひとびとの顔を、ひとりひとりのひとりでは対処できないものの対処の仕方を見て欲しい。死に質も量もないことは日々わたしたちが経験していることで、その経験していることの中にしか、中の中にしか死はないのだから。わたしたちはつねに経験を経験している。そしてこの経験の経験の経験の……経験を死と呼ぶ。

ひとひとり死ねばそれだけでもうじゅうぶんである。生き残る[surviveする]ことが、全人口からきのうの、きょうの死者の数を引いた数の中のひとつの1として生き残る[continue to live or existする]ことではないように、死ぬことは全人口から1がひとつこぼれ落ちることではない。こんなときこそちいさな、ちいさなニュースにばかりに目がいくのはわたしだけ? 

死刑がまたひとつ執行されれば、死が死をもって償われ、1引く1で0になるなどという破廉恥で愚かな思考は、この荒ぶる神の、自然の怒りをおさめるためにさらなる犠牲者を、1万人なら1万人の、10万人なら10万人の人身御供を海や山や戦争に捧げるくらい愚かでむなしいものであることに気づいて欲しい。偶然などない、ただそれが偶然とわたしたちの目に映るのは、その必然が、必然の必然の必然の……必然と、あまりに複雑すぎて理解することができないだけだというスピノザの言葉を思い出して欲しい。

ひとひとり死ねばそれでもうじゅうぶんであるどころか、わたしのこころはつねに破裂している(だから「わたしのこころ」などすでに存在しない)。だからこそ愚かなことをしないように、わたし自身を見張っていようと思う。歴史はいつも終章であるこの場面から始まるのだから。

終章からの女 (双葉文庫)

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