Naked Cafe

横田創(小説家)

天気予報のように

言葉の直接性。わたしはそれを「風景としての感情」と名づけた認識の場において/によって、意識のあり方をあらわすものとして考えてきました。言い換えれば、風景としての感情に結びついたとき、言葉はわたしたちにとって直接的なものになるのです。

いまもっとも直接的なものとして機能している言葉はなにかといえば、それはもちろん「地球温暖化」でしょう(「ワーキンブ・プア」は第二位、といったところでしょうか)。先日、表参道の交番の隣りにあるSUBWAYで遅めの昼食をとっていたのですが、隣りのテーブルでかなりだるそうな会話をしていた新卒・新入社員の自称「ワーキング・プア」な男の子と女の子は、自分たちが会社を辞めたくても辞められず、きょうも、あしたもかったるい仕事をしなければならないのも「地球温暖化」のせいにして、その無茶な論理に「それうけるー」「うける、うける」と、なんとも絶望的で自嘲的な声で笑っていました。「いや、うけない、笑えない、あまりにさみしすぎる」と思い、わたしは思わず、声は聞いても顔は見ないというカフェの盗み聞きにおける自戒を破って、ふたりの顔をまじまじと見てしまいました。

地球温暖化は、この地球の風景を一変させるものだと、もはや一部とは言えない多くのひとたちに言われそして思われています。わたしが問いたいのは、果たしてそれが真実であるのかないのかではなく、言葉が風景と結びついたときに持つ暴力であり政治のこと、ベンヤミンの言葉で言えば、神的暴力、ではなく、神話的[=神経症的]暴力のことです。アル・ゴアは、極めて学者的資質を持った政治家であり、純粋にこの地球の最期を怖れるがゆえに悪魔になった天使です。ビルマでサイクロンが発生し甚大な被害をもたらしたときは、まー、そう言われても、思われてもしかたがないかと(地球温暖化目線で)思いましたが、信じがたいことに、四川大地震のときも、巨大なせき止め湖をいくつも作らせたとして、地球温暖化のせいにされていました。きのう秋葉原で起きた無差別殺人も「地球温暖化」や「ワーキング・プア」のせいにしているひとはきっとひとりやふたりではないはずです。

ああ、なんてつらくさみしい風景=感情だろうと、わたしは思います。言葉は意識に直接作用するのは、意識が言葉以上のものでも以下のものでもないからで、ぴったり重なる、とはつまり疑いの余地なく肯定されるものだからで、もはや「地球温暖化」という言葉はわたしたちの感情であると同時に風景である「意識に直接与えられたもの」(ベルクソン)なのです。

言葉は風景と感情を結びつけるというより、言葉という"結びつき"がわたしたちの感情を産み出し風景というかたちを与える。だからわたしは言葉を批判すること以上のアンガージュマンが、直接的な行動、運動があるとは思いません。なぜなら言葉以上に暴力的で直接的ななものをわたしは知らないからです。それはわたしたちの風景=感情を一変させます。風景を変えるのに足も手もペニスもヴァギナもいりません。言葉があればじゅうぶん、というより、言葉という光が刻々と変えて見せる風景としての感情を、天気予報のようにいつでもわたしたちは注視している必要があるのです。

意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)

意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)

ところで、ひとつの選択は、いくつかの可能的行動についての事前の表象を想定している。だから、生物にとっては、行動の幾つもの可能性は、行動それ自身に先立って描き出されているのでなくてはならない。視覚上の知覚とは、それ以外のものではない。さまざまな物体の眼に見える輪郭は、それらに対して私たちがこれからするかもしれない行動のデッサンなのである。……アンリ・ベルクソン『創造的進化』訳・前田英樹(『記憶と生』より)
記憶と生

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