Naked Cafe

横田創(小説家)

厳正に処罰すべき? 死を無駄にしないためにも?

昨今頻発している通り魔のような無差別殺人事件に対して識者が「(犯人を)厳正に処罰すべきであるのは当然として」もしくは遺族が「(被害者の)死を無駄にしないためにも」と発言するとき、そこにはどんな力が、無意識が働いているのだろうか。わたしがいまここで問おうとしているのは、厳正に処罰すべきかどうか、でも、死を無駄にしてはならないのかどうか、でもなく、なにがひとにそう言わせているのか、言わずにおれなくさせるのか、である。

あまり言われないことだが、被害に遭い殺された者だけではなく、殺人犯として収監された(もしくは死刑が執行された)者もまた、社会的には死者として扱われる。というより、遺された者としてのわたしたちに重くのしかかる。つまり、このふたつの死がわたしたちにこの言葉を言わせているのだ。事件の構造を明らかにするというより、構造的に事件を問うこと。新聞や雑誌やテレビで事件に対するコメントを求められる識者にわたしたちが求めている答えがまさしくそれで、「犯人を厳正に処罰すべきであるのは当然だけど」という良識ある市民としての国家への忠誠心を示すこの前置き(もしくは但し書き)を、識者と呼ばれるひとたちがしなければならないのはそのためで、そのためというのは、いまわたしは識者としてこの事件を構造的に読み解いてみせるけど、だからといって犯人に責任がないと言いたいわけではない(とはつまり、犯人の「自己責任」である?)と言わなければ、ひとことそう断ってからでなければ、このある意味どころか、いろいろな意味で連続している通り魔事件を社会学的に読み解くことも、この時代を語ることも、憂えることも、若者たちに危険な徴候が見られると大人たちに警鐘を鳴らすことも、日雇い雇用者たちの労働条件の向上を訴えることも、怒ることも、ネットに書き込むことも、話すこともできないのだ。残念ながら、被害者の遺族たちが葬儀や記者会見の場で口にする「○○の死を無駄にしないためにも、二度とこのような事件があってはならない」も、それこそ構造的には同じである。事件を構造的に読み解くことを、愛する者の死を悼むべき場で遺族たちが求めている、というより、判で押したように同じ言葉を言わされている(=反復させられている、代表させられている)のだ。そんなこと、言わなくてもいいのにと、わたしは思う。あなたがその悲しみの純粋に耐えられなくてどうする、といっても、あなたが耐えなくてほかの誰が耐えられるのかと言いたいのではなく、ほかの誰でもなくあなただけが耐えられない、耐えることができない不可能なものの中にしか、その関係の中にしか悲しみの純粋はないのに、ないはずなのに、愛する者はいないはずなのにと、わたしは思う。

誰ひとり純粋に人間を構造的に読み解くこともできず、誰ひとり純粋に愛する者を失った悲しみと向き合うこともできない社会にわたしたちは棲んでいる。知は法の外に、文字通り法外なものとして、知への愛として、哲学としてあるものではなかったのか。愛は法の外に、文字通り法外なものとして、愛への愛として、悲しみとしてあるものではなかったのか。学者が愛の重要性を説き、恋人が構造的に愛を読み解く。ああ、なんて暗く悲惨な世の中なのかとわたしは思う。「(事件を起こしたことで)言い分を達成できたのか」とは、犯人に対する国家公安委員長の言葉だが、それは識者や遺族たちに対しても言えることである。言い分を達成してはならないのは、なにも犯人だけではない。すべての「わたし」たちに対してわたしたちは言うべきなのだ。純粋に構造的に事件を読み解くことは愛を無視することでも、死を軽視することでもない。純粋に悲しみと向き合うことは法を無視することでも、知を放棄することでもない。それは関係がない。関係がないものを関係させてはならない、意味を見出してはならない。行為を意識で、愛を知で、暴力を言葉で連続させてはならない[=肯定してはならない]。意志によって関係をコントロールしてはならない[=支配してはならない]。それこそが、わたしたちが犯人に対して言うべきことではなかったのか。