Naked Cafe

横田創(小説家)

「関係性」という言葉について

いつから気になりだしたのか、もう定かでないが、どうしてもわたしは「関係性」という言葉が気になる。論文やエセーや小説で目にするたび、本当なら「関係」と言うべきところを「関係性」と言っているだけのような気がしてならない。もしそうだとしたら、なにがわたしたちにそれをためらわすのか。そのためらいにはどんな力が働いているのか。

そもそもわたしたちは、名詞のあとに「的」に負けないくらいなにかと「性」をつけたがる。歴史的背景をわたしはまったく知らないが、もしかしたら「男性」「女性」からしてそうなのかもしれない。使用している意味からすれば「男」「女」でいいはずなのに、なぜか「男性」「女性」と言い、さらにその「性」を問いたいときは「〈男性〉性」「〈女性〉性」などとめんどくさい表記をしなければならないことも受け入れている。

では「男/女」と「男性/女性」の違いはなにか。「あいまいさ」の度合いであるとわたしは思う。「性」は指示対象の手触りというか、言葉で触れるときの「なまなましさ」を薄れさせ、その存在をあいまいにする。というかそれは当たり前で、「性」はなにか(の存在)を抽象化する作用そのものであるのだ。あいつの「人間」を疑う、とは言わずに、あいつの「人間性」を疑うとわたしたちが言うのは、あいつには人間として本来そなわっているはずの性質が損なわれているのではないのか、もはや人間ではないのではないかと非難しているわけだが、それなら、あいつは人間じゃない、でいいはずである。けど、それではあまりに表現が直接的すぎる。だから「性」が「人間」のあとにつけられているのではないか。

と、ここまでわたしは考えてきて、いや「男性/女性」はもちろんのこと「人間性」だって別にいい、あいまいさを目指す表現であることはあきらかだが、消極的にであるが、それが使用されることをゆるすことができるし、さほど違和感もない。けど「関係性」だけはゆるせない。といっても、その誘惑をわたしは感じないどころか、ひしひしと感じる。気を抜けばわたしも「関係」と書かずに、なんとなく「関係性」と書いてしまう気がする。だからこそ嫌なのだ。なんとなくというだけで、わたしはそうしたくないのだ。

わたしは「関係性」という言葉を使いたくない。なぜか。理由はふたつある。まず言えることは、意味がかぶっているからだ。つまり「関係」とは「性」のことであり、たとえば「人間性」とは、人間としていろいろな事に、物に、様々な関係に、人間として関係する仕方というか性質のことであり、現実的かつ具体的なものを括弧にくくることで「人間」とはなにかを問うことだからだ。

では「関係性」もそうなのかというと、そうではないどころか、むしろ真逆の効果を産み出す。どちらかが悪いというわけではなく、これは関係の問題であって……、という常套句があらわすように、関係、と言うだけで何々「でない」という存在の否定がすでに含まれている。だから「関係性」と言うこと/書くことは、裏の裏が表であるように「関係」にふたたび存在を、かたちを、実在を、realityを与え直すこと、もしくはその誘惑なのだ。

どんなテキストでもいい。誰の文章でもいい。その一節に「関係性」という言葉が出てきたとき、そこに漂う「関係」の(存在なき)存在を、その手触りを疑う書き手の、話し手の自信のなさを嗅ぎとって欲しい。ただ「関係」と言うことの、書くことのためらいが「関係性」という極めて消極的な言葉となってあらわれる。要するに「関係」は、植木鉢や電信柱や、犬や猫のようには、あなたやわたし、彼や彼女のようにはかたちがなく、見ることができないものであることがその存在をわたしたちに疑わせるのだ。

関係をそこで問おうとしているのに関係の存在を疑っている。あるのかないのかわからないそれを、犬や猫のように普通名詞で呼ぶことを躊躇している。だから「関係性」と言えば言うほど、書けば書くほど「関係」は問われることなく、あくまでも消極的な存在としての位置に甘んじさせられ、そこに主体を、主語を見る視点が、思考が失われる。関係がなにかをするわけがない、というわけだ。それはただ存在を映す鏡であり、現象に過ぎないというわけだ。

ふざけないで欲しいとわたしは思う。関係以外になにがあるのだと、この言葉を読むたび、目に触れるたびにわたしは思う。なぜ「AとBの関係性」としか書くことができないのか。それはAやBがこの世界の主人であり、その関係は奴隷に過ぎないと、こころの底では思っているからだ。関係を信じることができない弱いこころが「関係性」とひとに言わせ/書かせているのだ。

断言しよう。「AとBの関係性」とは、それが失われてもAもBも失われない程度の関係である。そんな程度の関係を問うても、なにも出てきはしない。とはいえ、関係は、AやBやCやDやEやFと同じようにあるのだと、あるものなのだとわたしは言いたいのではない。関係だけがあるのだ。それ以外のものはすべて関係の反映であり派生物である。むしろ「関係のA性/B性」とでも書くべきなのだ。もちろん「関係としてのA性/B性」でもかまわない、同じことだ。つまり、関係はAやBとなってあらわれる[=現象する]。言い換えれば、AやBやCやDやEやFを通して[=媒介にして]わたしたちに認識されるもの、それが関係なのだ。つまりわたしたちが、見ているものすべてが関係なのだ(→2006-10-29 「性=差について」を参照)