Naked Cafe

横田創(小説家)

なにも持たないあなたへ

なにも持たなくていい、ではなくて、なにも持たないのがいい。そう思うというより、どこかでこっそり感じているかもしれないあなたへ。たとえば、知識がなくてもいい、考えることはできる、とはよく言われることですが、知識がないほうがよく考えられるとはあまり言われないようです。知識がないほうがいいのかあるほうがいいのかと言えば、断然、ないほうがいい。それはなにも知識に限ったことではなくて、基本、ないほうがいい。そう言われると感動するほど、わくわくするほど積極的になにも持たないあなたへ。

そっと隣りに寄り添い、主人公に付き従う視線にはふたつの力があります。それは「愛すること」と「敵にすること」です。つまり敵を愛することです。「愛すること」と「敵にすること」が同時に同じ視線の中にあるとき、わたしたちは批判しているのです。敵を批判しているのではありません。批判するには敵をまず知る必要があると言いたいのでもありません。「敵を愛する」が批判なのです。どちらが欠けても批判にはならない。それはかならず別れに出会う運命にある。死すべき人間とは、この視線の中で、自己をも含めたすべてのものを批判し、別れに出会いながら生きている者のことです。

なにかを、そして誰かをじーっと見つめていると、そこにはかならず出会いと別れのふたつがあります。基本なにも持たず、なにもすることがないあなたですから、それをじーっと見つめているのですが、その同じひとつの視線の中でふたつの劇が同時に演じられているのです。それを名づけることの不思議と感じることもできるでしょう。カフェの丸いテーブルの上のそれを「おしぼり」と名づけるとき、わたしたちの視線は、おしぼりはおしぼりであり、わたしはおしぼりではないという別れ(=言葉)を通じてそれと出会うと同時に「おしぼり」というそれ自体呼びかけである出会い(=言葉)を通じて別れているのです。敵とはこの距離のことであり、愛とはこの近さのことです。わたしたちは距離の中で距離を失う近さの中で離ればなれでいるのです。それが言葉です。そしてそれはかならず誰かの視線なのです。誰にも見つめられないまま存在するものなどありません。孤独という言葉でさえ孤独であることはできないのです。

では「持つ」とはいったいなんなのでしょうか。いかなる行為を言うのでしょうか。上で論じた言葉を使って言えば、それは「愛すること」と「敵にすること」を切り離し、対立するものとしてそれぞれの位置に留めることです。自分のものではないものを持つことを、わたしたちは「借りる」と言いますが、それはかならず、ひとつの例外もなく、貸す者とのあいだに戦争を引き起こすことになります。貸してくれたのに? いいえ、貸してくれたからこそ戦争になるくらいのことは、誰でも経験的に知っていることです。借りた者はかならず貸した者に対して負い目を感じることになります。それは言葉も同じです。意味という言葉の貸し借り[=翻訳、解釈、批判、生成、差違と反復、脱構築]の中にある言葉はつねにほかのすべての言葉に対して負い目を感じています。知識とは、この貸し借りによって/において負い目を感じることを終わりにするための手段なのです。だから批判される心配も、する気苦労もない知識はいつでも、誰のものであっても暴力なのです。なぜなら暴力とは、敵に対する負い目を一気に清算すること(=関係を、意味の連鎖を断ち切ること)ですから。親殺し/子殺しがその典型であり、負い目を一気に清算するという意味においては、無差別殺人も、強盗殺人も、死刑執行も、軍事介入も、経済制裁も同じことです。少しでも安心を得るために躍起になっているだけのことなのです。ならば「持つ」というだけでもうすでに「武器を持つ」ことになるのではないでしょうか。なぜなら「持つ」ことができている限り、ひとは誰かに対して負い目を感じる必要も必然もないのですから。

なにも持たないあなたへ。ならばわたしたちは負い目を感じつづけていようじゃありませんか。感謝という負い目と裏腹の言葉で負債を返すことなく、背負いつづけていようじゃありませんか。なぜなら負い目を相手に感じさせたり、感じさせられたりしない関係などないのですから。すっきりすることは、関係がある限り、ついに訪れることはないのですから。関係という名のこの戦争を引き受けつづけるほかないのです。最終解決策[holocaust]という甘い夢だけがいつもひとにひとを殺させるのです(わたしは先日福岡の海浜公園で起きた"障害"事件を思い出しています、と同時に大江健三郎の『個人的な体験』のラストでつぶやかれる「希望」と「忍耐」という言葉を!)。わたしたち死すべき人間とは、関係という名のこの戦争の中で、自己をも含めたすべてのものを批判し、別れに出会いながら生きているとも言えるしすでに死んでいるとも言える者のことなのです。

……國分功一郎「抽象性と超越論性 〜ドゥルーズ哲学の中のブランショ〜」(『思想』2007年7月号 No.999掲載)を読みながら『カントの批判哲学』を同氏の翻訳で読み直そうと決意しながら。