Naked Cafe

横田創(小説家)

もてなしであり、こころであるもの

現代アートを積極的に見るほうではないが、ふと気づくと内藤礼の作品だけは見ていることに気づく。最初に見たのはテレビの特集で、いまも直島にある「きんざ」。より正確に言えば、古民家の壁と地面のわずかな隙間から水平に(!)差し込む光によって/において浮き上がる、そう、まったくもって浮き上がるとしか言いようがないまるい地面の、持ち運びできるヴァージョンを、瀬戸内海の、宇部港のさきに浮かぶ直島という島でお世話になったひとたちに、これ、よかったら、どうぞとばかりに彼女がプレゼントしている映像だった。彼女は直径十センチメートルほどのコースターのようなそれを、その老人の前で、丁寧に包んできた白くて薄い紙の中から取り出し、こんなんですけどー、て感じで畳に置いて見せた。驚いたことに、それはそこでも、その形としてでも浮き上がった。浮き上がって見えたというより、浮き上がった。もはやそれは「浮き上がった」だとわたしは思った。そしてそれは彼女の、彼女なりのもてなしであり、こころでもあった。

秋とか春のベランダで吸うタバコの煙が光を孕んだ風に舞うのを見るのがわたしは好きで、仕事も忘れてほうけたようにいつまでも見てしまうのだが、今回の、とはつまり三溪園の横笛庵という茶室のような古民家の畳の上に置かれたレトロな電熱器によって/において浮いた絹の糸も、風と光の感情だった。そしてそこにあるのは、なにかをしたいという欲望ではなく、したくない、それもしたくない、これもしたくないという内藤礼の(自己の欲望を拒絶し、内面化する=抑圧する言語、実践理性の概念、道徳法則としての)欲望であるようにわたしには見えた。それが横浜トリエンナーレ2008の別会場の新港ピアで見た、ほとんどすべての作品との違いだった。彼らは(あえてわたしは「彼ら」としか書かない)、あれがしたい、これがしたいという自己の欲望のために、あれはしたくない、これはしたくないという、これもやっぱり自己のものであるはずの欲望に目をつぶっていた。内藤礼なら処理しきれず、対応できずに、つまりはおもてなしをしようとしても、する機会そのものが奪われていることに気づいて逃げ出してしまうにちがいない音と映像、お互いに「他人の作品」としか思われていない欲望の中にそれらはあった。作品が出せれば、発表できればそれでいい、多少のことには目をつぶるし、目をつぶってもらうという感情(=美的判断)だけがそこにはあった。

なにか結論めいたことを言うつもりはないが、会場を、そしておそらく、いや、まちがいなく展覧会を企画し運営するひとたちを、ごちそうを目で食べるように彼女の作品を楽しみにして来たわたしたちを手段のみならず目的にする内藤礼の(作品ならざる)作品が、おもてなしであり、こころであるものが、わたしは好きだ。

横浜トリエンナーレ(11月30日まで)
http://yokohamatriennale.jp/

内藤礼「このことを」2001年
http://www.naoshima-is.co.jp/concept/art/kinza.html