Naked Cafe

横田創(小説家)

時代の余白

「本当の自分」と呼ばれるものは、だいたいがだいたいにおいて、いや、すべてにおいて、どんな自分であっても暴力的なもので、この言葉には、自己の暴力を自己の外に向け変えることをよしとする神話(被害者意識)が働いている。同じように、男である自分/女である自分の「である」はいつも、どの「である」もすべて制度の反映であり、反動である。それはコードという言葉ではなまぬるいと感じられるほどの強迫であり、かならずや抑圧をともなうものである。とはいえ、制度が個人を抑圧するのではない。そんな単純なものではない。個人が個人を、本人を、自己を制度によって/において抑圧する。抑圧が制度や他人によって引き起こされたり強制されたりするのであればなんの問題もない。自己を抑圧する(=言語化する、内面化する、罪悪感をおぼえる、加害者意識を持つ、後悔をする、反省をする、責任を感じる)ことができるのは自己だけである*1。ただその自己は、すでに絶望して自己であろうとするか自己であろうとしないかのどちらかであり、まだ自由でないだけのことである。わたしたちは絶望し尽くしたとき、つまりは自己を抑圧し、自己の奴隷にすることができたときはじめて自由になることができる、たとえそれが不可能であるとしても。絶望(=自己言及の不可能性)は自由へつづくただひとつの道なのだ。

決定的なことは、神にとっては一切が可能である、ということである。これは永遠に真理であり、したがって、あらゆる瞬間に真理である。人はよくそういうことを日常の慣習として口にするし、また日常の慣習としてなにげなくそう言われるが、しかし、人間がぎりぎりのところまで押しつめられて、人間的にいって、もはやいかなる可能性も存在しなくなるとき、そのときはじめて、このことばが決定的な意味をもってくる。そのとき、神にとっては一切が可能であるということを信じようと欲するかどうか、すなわち、そもそも人間が信じようと欲するかどうかが、のっぴきならない問題となる。しかし、信じようと欲するということは、悟性[しょうき]を失うことを表わす公式にほからならない、信じるとは、まさに、神をえるためには悟性[しょうき]を失うことを言うのである。(セーレン・キルケゴール死にいたる病』訳・枡田啓三郎 ちくま学芸文庫

両親に、そして社会に言われた/言われることのすべてに「男である自分/女である自分」が刻印されていた/いる。ご飯の食べからから、座り方、なにを着るかはもちろんのこと、なにをどんなふうに言うのか、するのか、考えるのか、すべての教えには常に「男であれ、主人であれ、主体的であれ/女であれ、奴隷であれ、非主体的であれ」という命令が働いている。そしてわたしたちは絶望する、男であることに/女であることに。そしてたいていの場合、自分は「男ではない/女ではない」と思うだけではいられず、とどまることができずに、わたしは「女である/男である」と、ただ単に主人と奴隷の関係が反転しただけの「である」にまた逆戻りする。当然といえば当然のことで、自己を否定すること(=意識すること、絶望すること、抑圧すること)はかならずや痛みをともなうものであり、自己と引き裂かれたままであることはつらいことだ。けど、そこにしか精神はない。自己との関係の中にしか精神はないというより、自己との関係そのものが精神であり自己である。それを「内省」と呼ぶのも「自己意識」と呼ぶのもあなたの自由だが、それはよく言われるように自己の中に閉じこもることではなく、自己を自己の中へと開くことである。自己を自己の意味に、複数の自己「でない」自己に、関係に、死にさらす/さらされることである*2

自己言及の回避は個体を生きながら病ませていく。なぜなら、それは言葉という人間に与えられた謎の「可能性の中心」を奪うことだからだ。(大澤信亮柄谷行人論」*3)『新潮 11月号』

すなわち獲得すべき/取り戻すべき「本当の自分」とは、逆にもなにも、他者を支配しようとする自己である。獲得したのは精神ではなく単なる制度で、獲得したのではなく、強制されたもの、死に至る病ルサンチマンである。そしてかならずやこの自我の奴隷は、自分は被害者であるのだからこうしていいのだと、こうする権利があるのだと主張し、暴力を行使することになる。責任は自分にではなく、あくまでも両親や社会にあるのだ。ワーキングしてもプアしないはずの「本当の自分」は、いま目の前にいる、ひとりの憐れな労働者に過ぎないガソリンスタンドの店長に、メガホンで「自分を搾取するな、疎外するな」と叫ぶ。ワーキングしてもプアする自分はあくまでも仮の姿なのであって、本来の、来るべき/かつての自分には「本当の自分」を取り戻すために数メートル先に立つ人間に向かって拡声器で怒鳴る権利があるのだと言う。かつて学生たちは、労働者でもないただのぼんぼん、ブルジョアたちの息子であるのに労働者の権利のために叫ぶという、どうしようもなく嘘くさく、非主体的な、当事者感ゼロの、頭でっかちの革命家だった。それは必然的に後ろめたさを、罪悪感を常にともなうものであった。それがいまや労働者でなければ叫ぶ権利はないと言わんばかりに、自分もひとりの労働者に過ぎないことを強調し、自分の立ち位置を、プロフィールを担保にして檄文まがいの論文、もしくは論文まがいの檄文を書き、その正当性を主張する。話がそれているようだがそれてはいない。わたしは彼らの精神を問うているのだ。

いつの時代も足りないのは、そしていつの時代も誰もが求めているのはフィクションという名の時代の余白である。当事者にしか当事者のことを書く権利がない(と主張し合う)世の中以上に暗く悲しい世の中があるだろうか。自己「である」から自己のことを話す権利があると言うなら、自己「でない」自己を本気で目指しているとは言えないだろう。獲得し、なにかを実現するための運動はかつてもいまも、そしてこれからも永遠に、運動たりえることはないだろう。

新潮 2008年 11月号 [雑誌]

新潮 2008年 11月号 [雑誌]

内省と遡行 (講談社学術文庫)

内省と遡行 (講談社学術文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

*1:ゆえに「自己責任」という言葉は悪しきトートロジーであり、この言葉を使って責任を他者に押しつける者はもちろんのこと、他者に代わって/のために他者が感じている責任を否定し、擁護し、救済しようとする者もまた(まるで自己以外の誰かが感じてくれる責任があるかのような幻想を抱いているという意味で)同じ誤謬に陥っている。他者の責任を感じるのもまた自己である。いや、自己が感じる責任はいつも他者の責任であると言っていい。そもそも自己に責任はないのだ(=自己も責任もないのだ)。ないはずなのに「ある」と感じるときはじめて、自己に対して、あくまでも自己に対してあらわれる(=回帰する)のが自己であり責任である。つまり自己とは責任のことなのだ。ゆえに責任を否定することは自己を放棄することを意味する。たとえ親切心からであろうと、救済であろうと「責任はあなたにはない」と言うことはそのひとの自己を、意志を、自由を奪うことなのだ。現実と名のつくものはすべて、そして誰に対しても、いつでも、ひどい。なにもそこまでと言いたくなるほど、どんなに言っても言い足りないほど、ひどすぎる。暴力的であるどころか暴力そのもので、思惟もへったくれもない自然であり、どこまでも内在的でありながら常に崇高であり、不快をともなうものである。けど、この不快を快に変えることができるのは自己だけなのだ。ゆえに理念が必要なのだ、わたしたちには。自己の限界において、限界であるがゆえに超え出る言葉が、責任が、自然の崇高と並行する理念の崇高が、目的の国が必要なのだ。

*2:だが、死を避け、荒廃からきれいに身を守る生ではなく、死に耐えて死のなかに自己を支える生こそは、精神の生である。精神は、甘んじて、自ら絶対的分裂のなかにいるときだけ、自らの真理をえている。精神がこの威力であるのは、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであるからではない。(G.W.F.ヘーゲル精神現象学 上』序論 訳・樫山欽四郎 平凡社ライブラリー p.49)→2007-09-12「死を耐え、死のうちで自らを維持するもの」を参照

*3:柄谷行人への「負債」を認めるすべての者、そして自暴自棄でも滅私奉公でもない「自己放棄のかたち」(柄谷)について思考する必要/必然がある者ははすべからく読むべし!!!