Naked Cafe

横田創(小説家)

緊張について(もしくは、欲望の節度について)

小学生のころ、いま思うと、どうかしてたのではないかと思うくらい、やたらとわたしは緊張していた。わたしだけではない。小学生は、とにかくやたらと緊張をする。そこに時代も個体の差もないように思われる。

わたしが「緊張」と聞いて、まず最初に思い出すのは小学生のときの、年に一度のマラソン大会だ。なぜマラソン大会なのか。これは説明を要する。わたしは小学校に入学すると同時に家族でマラソンを始めて、小学校の六年間一日も欠かすことなく毎朝4キロ走っていたこともあって、常に学年で一番だった。もうこれは、読売巨人軍か柔道日本代表並みに要らぬ自負で、気負いで、とにかくわたしは勝ちたかった。勝たなければならないと思っていた。誰よりも先にゴールに帰ってきたかった。スタートラインの、誰よりも有利な位置をキープして、緊張しすぎてうんこがしたくなって何度もトイレに行っては流しで洗っていた手のひらにさらにまた尋常じゃないほどの汗をかいて、それをふとももや体操着の半ズボンに擦りつけているとき、一度だけ、後ろを振り向いたことがあった。誰もとは言わないが、あきらかに緊張していないひとがいて、早く始まって早く終わらないかなーくらいの涼しい顔をしている同級生が何人もいた。驚きはしなかった。けど、あきらかにいつもより集中力を欠いていた。よく緊張は百害あって一利なしみたいに言われるがそれは嘘で、スポーツにおいて緊張は、料理をしているときの鍋から目を離すか離さないかくらい重要なのだ。そのときわたしは生まれてはじめて、走りながら勝つこと以外のことを考えていた、なぜ自分はこんなに緊張するのだろうと、弛緩させることを考えていた。

当たり前だが、欲望がそこになければ緊張しない。うまくやり遂げたい、いい結果を残したい、そのひとに良く思われたい、仲良くなりたいと思ってないのに、そのこと/そのひとを前にして緊張することなどありえない。緊張し過ぎて結果を残すことができなかった、自分の力を発揮できなかったというのは嘘だと思う。むしろ緊張し足りなかったのだ。緊張したとき、とにかくひとはいろいろなことを考える。するとそれまで見えてなかったものまで見えてくる。とはいえ、見えないものが見えるのではない、当たり前だが「見えない」と書いているのだからそれは見えない。そうではなくて、見えると見るの範囲と深さがexplosionするのだ。ありとあらゆることを想定し、たいていそれは最悪の事態で、もう自分はダメだ、なにがあっても勝てない、仲良くなれない、もしくは関係が悪化する、遅かれ早かれ、すべてを失うのだと絶望する。そこにある種の摂理が生まれる。道理と言ってもいいし、必然と言ってもかまわない。欲望の節度。節制でも、自制でもない、欲望と必然の止揚=並行、クリティカル・ポイント(山城むつみ)にひとは触れる。関係という名の危機はいつでもわたしという同一性、個よりも先にあり後にしかないように、緊張はいつでもわたしを先んじているし、わたしがわたしでなくなる場所においてもなおそれはつづく。緊張していたのではなく、緊張に緊張させられていたことをわたしたちは知る。

それはとにかく張りめぐらされている。まさにアントナン・アルトーの言う「神経の秤」で、わたしは自分の体以外の、いま自分がいる場所以外のすべての場所に、関係という外の中にいるのだ。考えればきりがないどころか、きりがないときだけが考えていると呼べる状態であることを素直に認めざるをえないときはこんなときで、わたしはわたしの限界で、考えうるすべてのパターンをシミュレーションしている。それはテレビ局のスタジオ、もしくはロケ現場で番組の収録中のお笑い芸人に引けを取らないどころかまったく同じ状態で、観客席や袖のあたりからわたしはわたしを見ている。言わなくていいことばかり口走り、吃音が増えてアプセットする。とはいえ、わたしはわたしの、そんなわたしの話をしたいのではない。逆に誰しもそうではないかと思うからここに書いてみたいと思ったのだ。

ゆえに緊張しない人生(=人性)などありえない。ひとである限りひとは緊張する/させられる。幸運なことに、わたしにはわたしを緊張させるひとがいる。きっとあなたにも、あなたにだっているだろう。こうして書いているいまもわたしは緊張している。書くとはまさしくこの緊張のありかを知ることで、より正確に書けば、そのありかなどないと知ることである。欲望は欲望である限り暴走しない。欲望それ自体はなにも望みもしないし奪いもしない。なんなんだろう、そう書いたときのこの感触は。わたしはいま緊張している/させられている。この緊張はどこからくるのか、どの愛がわたしに愛を呼び覚ませるのか。わたしは誰の愛に、どの欲望に、どんな暴力に応えたいのか。それとも愛や欲望や暴力に「どの」も「どんな」も「誰」もないのか。おそらく、たぶん、そうだろう。だからこそわたしたちは緊張するのだろう。……宇野邦一訳で『アンチ・オイディプス』を読みながら。

なぜなら何も秘密にする必要はなく、結局フロイトは分裂症者が好きではないのだ。(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』訳・宇野邦一 河出文庫 上巻p.53)

詰め込み、吹き出し、盛り上げること、それは歩く身体が、つねにますます多くの身体をめざして吹き出すその身体の測り知れない魂が、ついに一つの存在として存在し、その全身において魂となるための働きなのです。そのときその身体は魂でしかない。身体であるものは魂なのですから。(アントナン・アルトー『ロデーズからの手紙』訳・宇野邦一+鈴木創二 白水社p.157)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

ロデーズからの手紙 (アントナン・アルトー著作集)

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