Naked Cafe

横田創(小説家)

イグアナの娘

女子にとって、この世界はつねに戦場であるがゆえに、いきおいどうしたって女子の文学は自然主義文学になる。だけど二葉亭四迷の言うところの「有の儘に、だらだらと、牛の涎のやうに書く」ような、ユーモアのない、単なる自己表現であってはならない、これが問題なのだ。そして、なにもそれは「女子」に限らず、ありとあらゆるマイノリティの表現の永遠の課題でもある。とはいえ、マイノリティの表現ではない「表現」などあるはずないので、つまりこれは表現一般の問題なのだ。

言わずと知れたことだが、女子には言いたいことが山ほどある。会社のエレベーターの中でふと耳にした男性社員の言葉にもムカっとするし、テレビなど見ようものなら「女子」である自分を意識している女子を怒らせる場面のダイジェスト版なのではないかと思うくらい「女子」であるのに女子を意識していない(つまりは男子の視線を意識して、男子の要求に常にこたえようといる)女子に違和感をおぼえるし、仕舞にはいつもそんなことばかり考えている自分にだって腹が立つ。のは当然のこととして、問題はその先なのだ。つまり、表現になにができるのか。

漫画やアニメに疎く、さらに少女漫画をまったくと言ってもいいほど読んでこなかったわたしには萩尾望都の『イグアナの娘』はあまりに衝撃的だった。まるで少女漫画の全体、というより全史を、この短編で一気に、ひと呼吸で経験させられたような気がした。そして、なぜこんな途轍もない「少女=漫画」が可能になったのか、わたしたちの前にその姿を現したのか、考えた。いや、これから考えてみる。

漫画やアニメにはいろいろな線がある。それぞれにそれぞれの線があり、それぞれの選択を、描く/描かれるそのつどしている。そして、そうやって描かれた世界にはもはや選択はなく、すべては同じ線で、同じように、同じ風景として(の感情として)描かれている。『よつばと!』の、よつばととーちゃんの住む家のフローリングの床にはゴミはおろか塵ひとつない。とーちゃんのTシャツの皺は実に丁寧に、そのつど描かれているけど、よつばがどんなに大暴れしても、どんなに派手な落書きをしても、壁やテーブルに汚れが残ることはなく、家はいつでも新築そのものだ。その代わりに、あのあまりに見事な「間取り」が現れる。『よつばと!』の本当のコマ割りはこの「間取り」なのだ。ふたりがファミレスに行っても、レンタルビデオ屋に行っても、電車に乗って海に行っても同じだ。海にも「間取り」があることをわたしたちは知る。その代わり、やはりここにもゴミはない。貝殻はあっても、ハングルの商品名が書かれた洗剤のペットボトルが砂浜に打ち上げられているようなことはない。

『思い出ぽろぽろ』を最初見始めたとき、どうして鼻の下にいちいち線を描くのかわからなかったというか、不可解だった。あれは「ほうれい線」と言うらしいが、あの線を描くと、どうしたって老けて見えるから、おそらくまだ二十代の「タエ子」が、四、五十歳くらいのおばさんに見えてしまう/なってしまう。あの線は、思い出の中の母親の顔にも姉たちの顔にもない。けど、見終わるころには、トシオの前で、蔵王のカフェテラスで、おんぼろ車の助手席で、タエ子が表情を変えるたびに、そのつど顔に描かれたあの線こそがこの作品の描きたかったものであることをわたしたちは知る。わたしはこの作品のほかのどの線よりあの線を愛する。「タエ子さんは〜」という「トシオ/柳葉敏郎」の声と同じくらいに。

萩尾望都の作品も含めた『イグアナの娘』以前の「少女漫画」が、その線が、なにを選択し、なにを抑圧してきたのか、わたしにはわからない。けど、少女漫画は、線だけで描かれた白い髪を持つプリンセスのような妹として現れ、屈託のない笑顔で愛嬌を振りまき、常にイグアナの娘の隣りにいて、いちいち比較されているのはわかる。写真や他人の、父親の目を通して見れば、イグアナの娘もちゃんと「少女漫画」をしているのに、つまりはゴミひとつない床であり、皺のない、つるっとした顔であるのに、黒髪のイグアナの娘と、黒髪の母親だけは、互いのゴミや皺だけを、自分の現実だけを、最後の最後まで、いや、そのさらに先まで、最後の先まで、その向こうでもまだ見つめつづける。

これを超越論的思考と言わずになにを「超越論的」と言うのだろうか。当たり前だが、黒人であれ、女性であれ、労働者であれ、マイノリティにはいつも言いたいことが山ほどある。だからいつもこころがざわざわしている。石を投げるなら、すべての道の、すべての石を投げ尽くすまで気はおさまらないはずだ。「萩尾望都」という名の少女は、漫画は、その石を、誰に向けて投げたのだろうか。少なくともその石は「少女」と「漫画」のキャンバスに、自分自身に、もう後戻りすることはできない穴をあけたようだ。象徴界現実界の穴をあけたのだと言いたいのではない。すべてを現実として、描けないものを描き、描かれる意志が、欲望が、線が『イグアナの娘』にはある。

イグアナの娘 (PFコミックス)

イグアナの娘 (PFコミックス)

*母と娘の物語ブックガイド・マンガ篇(編=ヤマダトモコ)の中で紹介されています(ていうか、それでわたしは知りました)。あと、萩尾望都×斎藤環の対談も収録されています。