Naked Cafe

横田創(小説家)

意志と自然の極北

わたしたち人間は意志する。意志しない人間など「人間」と呼ぶに値しないと言われるほどに意志する。つまり意志は人間にとって人間であることのあかしであり根拠である。当たり前だが、意志は自動的ではないし自然に準ずるものでもない。むしろそれに立ち向かい、従わないために行動する。やらないよりはやることを選び、意志によって変えられないものなどないと信じる。それはかならず法(ノモス)という、あらたに準ずるもの、感覚あるいは思考の図式・枠組みとしてあらわれ、わたしたちを自動的にする。つまりはわたしたちの自然(ピュシス)となる。かくしてわたしたちの「意志」と「自然」は、互いの極北*1によって/において互いの中に転落し合う関係になる。関係するのでも関係させられるのでもない、関係「になる」のだ*2

We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us : we made the System.

多くの日本人が惜しみない賛辞を贈った村上春樹エルサレム賞受賞式のスピーチの一節である。彼はあえて"go there"して"do that"した。つまりは多くの反対や警告があったにもかかわらず、いや、あったからこそエルサレムに行き話すことにした、やらないよりやるを選んだという彼の小説家としての「意志」表明でありアンガージュマンである。だがすべての問題は、問うべきことは"The System did not make us : we made the System"という一節にある。

The System did not make us : we made the System.
システムがわたしたちを作ったのではない、わたしたちがシステムを作ったのだ。

違う。端的にわたしがそう表明し、このヒロイックで単純な責任論に、ヒューマニズムに反論するからといって、その逆であると言いたいのではない。

The System made us : we did not made the System.
システムがわたしたちを作ったのだ、わたしたちがシステムを作ったのではなく。

アンチ・ヒューマニズムとしての構造主義的な、ポストモダンと呼ばれた言説の終焉を唱える反動的な者たちが、おそらくそう考えているであろう無責任論、晩年のデリダが多くの時間をさいて反論した「脱構築=非正義」論がこれだが、わたしはもちろん、このどちらもとらない。なぜならもし"The System"と、文字通り大文字で呼ぶべき「自然」があるとするなら、まちがいなくそれは"We"の、わたしたちの「意志」であるはずだし、あるべきだからだ、アンティゴネーの「自然=意志」、掟そして行動のように。よってわたしならこう書く。

The System made us : we made the System.
システムがわたしたちを作った=わたしたちがシステムを作ったのだ。
→システムが作ったわたしたちが作ったシステムが作ったわたしたちが……。

すべてはわたしたち人間という尺度の問題なのだが、そもそも「人間」とは、個々の人間の「意志」つまりは認識のことでもなければ、個々の人間の「自然」つまりは存在のことでもない。なぜなら個々の人間を横断する「意志=自然」こそが「人間」であり、それは言語や無意識と呼ばれるシステムだからだ。単純なヒューマニズムにとらわれた者たちの思考がおかす最大の誤謬は、個々の人間の「意志」あるいは「自然」があるという思い込みである。議論をしているのは個々の人間ではない。個々の人間を、個々に横断している議論の枠組みと枠組みが議論しているのだ。ありとあらゆる分野の言説の蛸壺化が唱えられ、警鐘を鳴らされるようになってひさしいが、そもそもその蛸壺化した個人なるものが存在しないのだから、わたしは危惧もしていなければ憂えもしていない。百歩譲って蛸壺化ししつつあるのだとしても、その無数の蛸壺たちは『マトリックス』の人間電池の装置のようにシステムに横断されているのだから、皮肉なことに蛸壺化など心配するに及ばないのだ、ちゃんといつでもひとつの蛸壺なのだ。わたしたちがシステムの外に出られることなど、わたしたちがわたしたちである限り永遠にない。なぜならシステムとはわたしたち人間のことであり、わたしたちとはシステムのことだからだ。

ヒューマニズムを突き詰めれば、まちがいなくアンチ・ヒューマニズムという絶望に突き当たるだろう。わたしたち人間は言語や宗教や経済というシステム(「自然」)に考えさせられているだけで、なにひとつ考えていないし決めてなどいないのだから責任をとることなど夢のまた夢で、自由(「意志」)などありはしない奴隷であることを知るだろう。かといって、アンチ・ヒューマニズムを突き詰めればまたヒューマニズムという絶望に突き当たるだろう。わたしたち人間は、人間という尺度、言語や宗教や経済というシステム(「意志」)の外で考えることなどできないのだから物それ自体を知ることなど夢のまた夢で、実在(「自然」)など一片たりとも知ることができないことを知るだろう。あるのはただ揺れであり、不安であり、このふたつの絶望という名の極北から極北へ行き交う関係という名の運動だけだ。よってわたしたちが断固とした態度をもって退けるべきなのは、この不安を、運動を否定する単純化=全体化すること、つまりは知ること、知ってしまうことであり、知識にすることだけではないかと最近、そう、最近、ここ数年、いや、ここ数日のわたしは思う。

システムか、わたしたちか。壁か、卵か。この「単純さ」には、ビン=ラーディンを、フセインを殺せば、ターリバーン政権を崩壊させれば、かならずや世界に平和が訪れると信じて行動したアメリカンヒーローの思考に等しいものがある。つまり、同じひとつの存在が「壁=システム」に見えたり「卵=人間」に見えたりすることこそが問題なのだ。そのことに無自覚であることにおいて両者に違いはない*3。断っておくが、サルトルが「単純に」ヒューマニストだったことなど一度も、一瞬もないし、フーコーが「単純に」アンチ・ヒューマニストだったことも、ただの一度も、一瞬もない。彼らは常に揺れていた。現象学の発見から実存主義におおきく振れたあともサルトルが思考することをやめなかったことは、彼の最晩年の仕事(『倫理学ノート』『真理と実存』)の研究*4によって、少しずつだがあきらかになりつつあるし、フーコーに至っては、一貫して自分が構造主義者であることを否定していた*5、あれほど構造主義的な、アンチ・ヒューマニスト的な仕事をしていたのにもかかわらず。いや、おそらく絶望するほどにしていたからこそ。

……福田和也・著『奇妙な廃墟』と、入不二基義・著『相対主義の極北』を読みながら。

相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)

相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)

“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

*1:「絶対的な相対性」浅田彰

*2:これこそが止揚でありかつ脱構築である。もちろん、止揚脱構築は同じではない。違う言葉なのだから、同じであるはずがない。だがわたしは、脱構築ではない止揚になど興味はないし、止揚を「単純に」否定する最終解決策[holocaust]としての脱構築(「私」「いま・ここ」)などあるはずがないしあってはならないと思っている。

*3:わたしには理解しがたい「兵士/一般市民」という区別などまさにこれに相当する。近年のテロルはその区別がつかないことにアメリカをはじめとする西欧諸国は手をこまねいているのはこの詐術が通用しないからだ。いじめの問題も、万引きの問題も、死刑の問題も同じだ。だがそれ以前に、すべての問題は見えにくく、わかりにくいものではないのか。オーケー、これは人間ではない、システムだ、ただちに殺そう、破壊しよう。そうやってユダヤ人はユダヤ資本というシステムとして、少なくともその担い手=兵士として大量殺戮されたのではなかったのか。世界恐慌というシステムの瓦解のあとに。

*4:たとえば澤田直・著『〈呼びかけ〉の経験』人文書院

*5:たとえば「大がかりな習慣」『フーコー・コレクション4 権力・監禁』ちくま文庫所収