Naked Cafe

横田創(小説家)

最後の詩

生活について考えることがほかのなににも増しておもしろいのは、水を抜いて水槽の掃除をするみたいに一度なしにするというか、リセットしてから改良したり、工夫をこらしたりすることができないからだと思います。すでにしてつねに始まってしまっているわたしたちの生活はどうあっても、なにがあっても止めることはできない。だからやりながら考え、考えながらやるしかなくて、お風呂に入りながらお風呂掃除をするのが生活の考察&改良の基本で、あるべき姿であるような気がするのです。なんだか手術に似ています。生活はわたしたちの内臓なのかもしれません。

内臓といえば、料理も同じなどころか、かれこれもう二十年近く料理をしていますが、いまだにふとしたとき、いま自分はすごいことを平然としている、世界の中に直接手を突っ込み、切ったり焼いたり煮たりしていると思うときがあります。それはまるきり音楽と同じで、ドラマーのひとがスティックで力いっぱいシンバルを打ち鳴らすみたいに、インドクジャクが猫みたいな声で動物園の空を震わすみたいに、ひとくち大に切って醤油を染み込ませて片栗粉をまぶした鶏の胸肉をフライパンの油の中に入れるとじゅーって言います。たまに家の中で火をつけたりして、なにしてるんだろう、と思ったりします。火と水と包丁の鉄とまな板の木と器の土と、これからも美辞麗句抜きで遊んでいけたら、戦っていけたらいいと、思っています。

すべては同時に、どーっと横一線に並んで流れてゆきます。誰の部屋にも布団があって、姿見の鏡は手の脂で汚れていて、床には毛がたくさん落ちています。だから否定しだしたら、掃除し出したら切りがないのもあるけれど、なんだかそれだけとは思えないくらいどうしようもなくわたしはきれいに片づいて汚れた下着の一枚落ちてない部屋が好きではないのです。世にも奇妙な散文的な暮らし。油まみれのフライパンみたいな音楽。料理はわたしに残された最後の詩なのかもしれません。だからこそ強烈な否定を、理性をともなうレシピが、小説的な技術が必要なのです。もうこれからの人生ずっと、ずっとずっと、わけがわからないまま生きていたいと思っています。生きる必要はもうありません。料理小説を書きたいと思っています。仕事をすることは生きることではありません。死ぬことでもありません。生きるとか死ぬとか関係ないところで息を、呼吸をすることです。