Naked Cafe

横田創(小説家)

愛すること、怒ること

わたしのような愛し方をすることだけが愛することだとはもちろん思わないが、そのひとなりの愛し方が、いくら考えても見あたらないというか見いだせないとき、わたしはどうしようもなく暗い気持ちになる。なぜなら、どのような愛し方であれ、それがキリスト教の隣人愛と呼ばれるもの以上のものでも以下のものでもないからだ。隣人愛とはなにか。それはイエスの言うように「自分を愛するように他人を愛する」ことだが、具体的かつ現実的に言ってなにをすることなのか。それは怒ること以外にないとわたしは思う。ものごころついた小五か小六のころからわたしはずっとそう考えてきた。もちろんわたしなりに最大限疑いつづけ、直感的に抱いた自分のその考えを批判しつづけてきたつもりなのだが、そのたびごとに更新されはしてもいまだに真理としてわたしの中に居座っている。

自分を愛するように他人を愛することは怒ることである。もちろん、わたしのような怒り方をすることだけが怒ることではないだろう。けど、いかなる怒り方をするにせよ、怒ることなく誰かを愛することは不可能であるとわたしは思う。それは愛することなく愛することくらいおかしなことで、愛することはすなわち怒ることだとわたしは思う。怒るの中にも愛するとイコールで結ぶことができないものもあるだろう。けど、わたしに言わせれば、それは怒るでも愛するでもない、ただの八つ当たりで、反省して、今後しないようにすれば済むだけの話である。反省しても、しても、しても、してもしても済まない問題があらわになるのが隣人愛で、愛しているから怒らずにおれないのか、それとも怒らずにはいられないほど愛しているのか。おそらくそのどちらでもなく、愛すると怒るは同じ行為につけられた別の名前なのである。怒るは愛するの顔なのである。わたしたちは怒ることでしかそのひとへの自分の愛に気づくことができない。自分を愛するように他人を愛する自分は、他人を愛することの中でしか見つけることができない。

高校生のときにたくさん聞いた同級生の男の子や女の子の恋愛にまつわる悩みの中で、びっくりするほど多かったのが「まだ一度もケンカをしたことがない」というものだった。おそらくいまこの瞬間も、十代、二十代の男女でそれを深刻な、もしくはちょっとした悩みとして友だちに話しているひともたくさんいるのだろう。わたしは「それは愛していないからだ」といつも答えた。「本当に愛してない、てこと?」と聞き返されれば「いや、たんに愛していない」と、こころを鬼にして答えた。すると「そうかもしれない」という意外なくらい素直な答えがほとんどの相手からかえってきて驚いた記憶がある。おそらくその相談をした時点でうすうす感じていたのだろう。けどいま付き合っているそのひとだけではなくて、むかし付き合っていたカレシ/カノジョともケンカしたことがないのだから、そんなこと言われても途方に暮れるしかないようだった。だからわたしは「誰になら怒ったことがある?」と、別の質問をぶつけてみることにした。

仮にもし八つ当たりでも鬱憤晴らしでもない怒るという行為があるとするなら、仮にもしわたしがあなただったらこうするのに、こうしないのにという助言、提案をされた相手に自分は強制されていると、こうしろ、こうするなと脅されていると受け取られても仕方ない断定をともなう命令、あるいは裁きとなるはずだろう。たとえどんなにソフトな言い方をしたとしても、他人になにかを言うことは怒ることである。なぜなら、それは八つ当たりでも鬱憤晴らしでもなく、他人のことをまるで自分のことのように考えることだからである。「こうしてみたら?」と「こうしろ!」の差違は、他人に言う/言わないの差違の前では同じ「言う」という行為である。「仮にもし」もなにも、万が一にも、天と地がひっくり返っても他人は他人で、自分であるはずないのに他人のことをまるで自分のことのように考え、こうしろ、こうするなと言うことは命令することであり、わたしはいまそれを「怒る」と呼ぶことをあなたに提案しているのである。つまり、わたしと同じように考えろとあなたに命令しているのである。つまり、わたしはあなたに怒っているのだ。

わたしならそうしないけど、あなたがそうしたいならそうしたら? この言葉に愛を感じるひとはいないだろう。恋人と思っていたひとにそう言われたら、まちがいなくこのひとは自分のことを愛していないのだと思うだろう。恋人とケンカを一度もしたことがないのが悩みである彼や彼女も、家ではけっこうやんちゃしていて、親に「うざい」とか「死ね」とか罵声を浴びせかけたり、兄弟姉妹に「ばっかじゃないの?」と思慮の欠けた言葉を口にして取っ組み合いのケンカをしたことなんて一度や二度ではないからこそ「結局自分を愛してくれているのは親や兄弟であり家族だけだ、いくら愛しているとかずっと一緒にいるとか言ったって恋人や夫婦なんてしょせん赤の他人だ」という絶望的で悲しい結論にたどりつくのだ。親や兄弟が「うざい」けど「ありがたい」のは、他人であるはずの自分のことを、まるで自分のことのように考え、こうしろとかこうするなとか激しい口調で怒って命令してくる存在だからだ。ただし、この愛は「追いはぎに襲われたひとの隣人」となる通りすがりの愛*1ではなく、追いはぎに襲われた肉親の復讐を誓う愛である。「自分を愛するように他人を愛する」ではなく「自分を愛するように愛することができるひとを愛する」愛である。なんて青ざめた愛の顔だろう。自分の子どもなのに他人のようにしか感じられず、自分を愛するように愛することができない自分を責め立てる母親の倒錯に気づくどころか、あなたどこかおかしいんじゃないの? 自分の子どもが愛せないなんて、普通じゃないとメンタルクリニックに通うことをすすめる母親にとってその娘は自分の延長以上でも以下でもない存在であることは確かだ。自分の子どもを愛するように他人を愛する者は、他人を愛するようにしか自分の子どもを愛せないのは当然のことだし至極まっとうなことだ。そしてその愛以上に美しい愛を、純粋ではないにしても必死な愛を、死を賭した愛をわたしは知らない。隣人愛。自分を愛するように他人を愛することは、他人を愛するように自分を愛することなのだから。

おまえ女なんだから、少しは料理くらいできるようになれよと怒る恋人も、会社の同僚と一緒にいるときくらいはオレを立ててくれよと怒る旦那も、まちがいなくあなたを愛してなどいないし、怒っているのでもない。なぜなら、男のオレはそんなことしないけど、女のおまえはそうしろと言っているのだから、そうする/そうしない、こうする/こうしないがふたりのあいだで、ふたつの「わたし」のあいだで一致していないからだ。同じ「わたし」を賭けていないからだ。オレはここで死ぬ、だけどおまえは死ぬな、生きろと言われて自分は愛されているのだと感じたあなたがその男を愛していないのがあきらかなのと同じこと。恋人だからって、夫婦だからって、なにもかも一致する必要はないのでは? と思った現実的なあなたはそのひとを愛していないとは言わないが、その程度の愛であるとは言わざるをえない。もっとも、まちがいなく、どんなふたりの愛もその程度の愛である。もしその程度の愛ではなく純粋で絶対的な愛であるなら、いますぐ刺しちがえるか心中するかしているはずだ。「自分を愛するように他人を愛する」とはそういうことだ。他人だけが自分となり、自分がもっとも遠い他人となる。そんなわたしの世界では、もはやただ自分である自分も、ただ他人である他人も存在しない。カフェでたまたま隣りに座って会話を聞いてしまっただけの女子高生に、いますぐそのクラスメートに謝りに行きなさい、そして二度とそんなことはしないようにしなさいと命令するイエスのように、もって三年の命で、テロリストとして十字架にかけられ、隣人愛のあらたな始祖として、始祖の更新として祭られることになるだろう。

怒っている相手に、なんでそんなに怒るの? 怒る必要なんてないじゃないのと怒るのもまた愛だろう。けど、なんでそんなに怒るのと怒っているのに怒らないことはなにがあっても愛ではない。別にいいもわるいもない。ただ、そのひとを愛していないだけのことである。なら、愛するために怒ろうと思って怒れるものではないのは誰もが知るところだろう。怒らずにはいられないからこそあなたはそのひとを愛しているのだが、愛しているから怒らずにいられないとは言えない。愛は積極的に語ることはできない。怒ることでしか表現できないものであり、それはかならず怒られる他人の顔としてあらわれる。わたしはこうしたい、こうしたくない、だからあなたもこうしなさい、こうするのをよしなさいとわたしたちは思い、思ったように他人に言うのでも強制するのでもない。なぜなら「わたし」は積極的に語ることができない、行為する前に用意することができないものだからである。こうしなさい、こうするのをよしなさいと他人に言う、その言うの中にしか「わたし」はいない。「わたし」は、自分がなにをしたかったのか、なにをしたくなかったのか、なにを善と思いなにを悪と思っているのか、なにを美しいと思いなにを醜いものだと思っているのか、他人に言うことの中でしか、怒ることの中でしか知ることができない。いや、それは知るというより怒ることであり愛することである。

腹が立つのはいつも他人ばかりであるのは、他人を自分を愛するように愛せとつねに命令されているのも同然で、その機会は嫌になるほど転がっている。この命令にこたえることがひとを愛することだと言っていい。どんなささいなことでもそうである。腹が立ったことを腹が立ったと、会社の上司に伝えることはもうそれだけで愛である。愛されていると勘違いされたら困ると直感的に思うのはまちがいどころか大正解で、怒ったということはあなたはその上司を愛したのである。わたしたちは多くの時間を、愛しているどころか大嫌いで、死んでもらいたいと思っている人間のことばかり考えて過ごしている。いまどこでなにをしているのか、なにを考えているのか、むしろ恋人のことより、いつもしょっちゅう考えている。こんなとき、合コンで出会って、週末に会ったり会わなかったりするだけの恋人の立場は微妙なんてものではない。なにせ会社の上司とは週に五日、一日に八時間も九時間も顔をつきあわせているのだ、圧倒的な力を持っている。好きであろうが嫌いであろうが、測られるべきはその振幅である。それはつまりそこにどれだけの力がかかっているのか知ることである。隣国が侵攻してきて地上戦に突入した夜、ちょっとおしゃれな居酒屋で合コンが開かれたのであれば、そこで演出された出会いは戦争よりもきっと強い力を持つことになるだろう。愛は積極的に語ることができない。ひとを愛そうと思って愛することができないのは、なにも嫌いになろうと思ってひとを嫌いになるのではないのと同じで、すべては外からの力によって/において「わたし」の行為は決定させられているからだ。あなたが大嫌いなその上司を愛するのか愛さないのかは賭けられていても、ケンカしたことがないのがちょっとした悩みのその彼氏を愛するのか愛さないのかは、残念ながら賭けられていない。あなたの命は、魂はそんな弱い力に左右されない。なぜその恋人にあなたは腹が立たないのか。生きている限り永遠に自分から逃げられないように、あるいは会社で働いている限りその上司から自由になることができないようにはその恋人にあなたが巻き込まれていないからである。あなたはその恋人から自由だ。だからあなたは愛していない。その恋人を愛する必要がないからである。

隣人愛。それは「自分を愛するように他人を愛する」ことの強制であり、選ぶことのできないものを選び、これは自分が望んでいたことであると意志することでその責任をとれという命令である。わたしたちは、愛しているからそのひとのことを考えるのではない。そのひとのことを考えずにおれないその限りにおいてそのひとのことを愛しているのである。それは記憶の中にではなく、思い出すという行為の中にしかない愛や怒りと呼ばれる感情である。たとえ目の前にいても「わたし」は愛するそのひとを思い出すことしかできないのである。会うたびに、公共事業の無駄遣いか官僚の渡りの話しかしない(=思い出さない)サラリーマンのその恋人は、やつらだけいつもいい目を見ていると歯ぎしりしている政府や官僚に巻き込まれていても、いま目の前にいるあなたにはいっさい巻き込まれていない(=あなたのことを思い出してはいない)。彼にとっては天下国家という亡霊だけが恋人なのだ。いますぐそこから立ち去ることをすすめる。いや、命令する。そうでなければわたしはあなたに怒ると思う。あなたを愛しているから怒るのではない。怒ることの中にしか、言うこと、あるいは書くこと、いまここでかわされる言葉の中にしか愛は存在しないのだから。

*1:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある司祭がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」……ルカによる福音書 10 25-37