Naked Cafe

横田創(小説家)

つねにしてすでに命は

わたしたちは、生きている限り、つねにしてすでに命に脅迫されている。この「つねにしてすでに」という副詞をわたしが使うようになってすでにひさしいが、としか言いようがないところにこの副詞の強度はある。「わたしたちは、生きている限り、命に脅迫されている」ではなにかが、それも決定的ななにかが、その過剰さに対する過剰さが、意味が足りないのである。

そう、つねに、そして、すでに、わたしたちは命に脅迫されている。2004年4月にイラクの反政府組織によって三人の日本人が拉致され人質にされて自衛隊の即時撤退が要求された「自己責任」事件だけではなく、わたしたちはつねにしてすでに命に脅迫されている。右翼とは、直接暴力を振るう者ではなく、この原理原則によって/において交渉相手を脅迫し、屈服させ、自分たちの要求を押し通すことで社会を変革しようとする者である。だから「友愛」を唱える右翼的な政治家たちは、命を大切にするために育児手当の公約にし、命を大切にするために年金制度の維持・存続に奔走し、国民の命を核の傘で守ってくれる日米安保条約の許す範囲で基地の移転を要求する*1。「命は大切」という概念を理性概念[理念]に、原理原則にしている限り、わたしたちは命の脅迫に屈しつづけなければならない。この脅迫こそが、左翼を名乗る者たち、人権運動をする者たち、独立を獲得しようとする者たち、フェミニストたちのクリティカル・ポイント(=行動や言動、つまりはその運動の本質は、不可避にして不可欠なものはなにかと「燃えつきようとするろうそくのちらちらゆれる最後の光に照らし出され」る敷居*2、問われる境界域)である。「命は大切」による/における脅迫に屈することは直接的に精神を後退させる。それが右翼のやり方なのだ。よく知られているように、右翼とは、誰よりも命を大切にする者たちである。大震災が起きれば誰よりも早く災害地に駆けつけ炊き出しをする。警察の代わりに街の安全を、市民の、家族の命を守る。この星にこの僕として、この家族の一員として生まれてきたことに、この仲間と同じ時間を生きることができることに、共有できることに感謝するためにこの星の美しさを、カケガエノナサを、この一瞬のきらめきを、命の尊さを謳う。彼らは命を大切にする、こころやさしき者たちである。このやさしさこそが問題なのだ。

「命は大切」による/における暴力につねにしてすでにさらされ、彼らと同じように、いやそれ以上に「命は大切」と思うがゆえに苦しむ者たちがいる。産まない自由を、中絶する自由を、子育てや介護を放棄する自由を与えられない者たち、結婚させられる女たち。女として生まれた彼女たちは生まれる前から、つまりはあらかじめ命に脅迫される運命にある。それが「つねにしてすでに」の正体である。イジメの悪循環から抜け出せない者たち。彼女たちはクラスのいじめっ子に脅迫されているのではない。自分の命に内側から、内にある外からつねにしてすでに脅迫されているのだ。だから自殺するのだ。自分の命さえなければ、この命さえ抱えていなければいじめられずに済むことを彼女たちは潜在的に(=すでにしてつねに)知っていたから。鬱になる者たち。ノイローゼになる者たち。貧乏揺すりをする者たち。整形地獄に陥る者たち。薬漬けになる者たち。セクハラされても、痴漢されても、強姦されても言い出せない者たち。……虐げられた者たち。「命は大切」だからと、彼女たちの命を救うために運動することが逆に彼女たちの首を絞めることになりかねないというこの途轍もないアポリア、思考の袋小路。ラスコーリニコフは、命の脅迫という悪循環から抜け出すために、誰よりも「命は大切」と思っている、信じている自分が最もしたくないことを、できないことをみずからの意志でした者である。彼女*3が老女とその妹を命を奪ったことは果たして自己の命という脅迫に屈した(=奴隷になった)ことになるのか、それとも他人の命という脅迫に屈しなかった(=英雄になった)ことになるのか。それが『罪と罰』のテーマであり、描かれていることのすべてである(そろそろ「悪意」などというドストエフスキーが描いてもいないし描こうともしていなかった偽のテーマを忘れてもいいころだろう!)。『虐げられた人びと』に登場するネリーという名の少女は、自分に物乞いをさせた老人(「お祖父さん」)の命を救うために、彼が死んでもなお物乞いをする橋に立ちつづけなければならないのである。「つねにしてすでに」の正体、それは亡霊である*4

「それは夢だよ、ネリー、病気のときに見る夢だ。きみは今、病気だから」と私は言った。
「私もただの夢だと思ったの」とネリーは言った。「だからだれにも話さなかった。あなたにだけ何もかもはなしたかったけど。でも今日あなたがなかなか来ないので眠ってしまったら、夢に今度はお祖父さんが出て来たのよ。痩せて、こわい顔して、自分の部屋で待ってたの。そしてもう二日間なにも食べてない、アゾルカもだ、って私を叱るの。もう嗅ぎ煙草も全然なくなってしまった、煙草がないとわしは生きていかれないんだ、って。お祖父さんは前に本当にそう言ったことがあるのよ、ワーニャ。ママが死んだあと、私が訪ねて行ったときにね。そのときのお祖父さんはひどい病人で、もう何が何だか分からなくなっていたわ。それで今日、お祖父さんがそう言うのを聞いて、私、思ったの。また橋の上に立って乞食をして、そのお金でパンや、じゃが芋の煮たのや、煙草を買ってあげよう、ってね。そしたら私はもう立って乞食をしているの。見るとお祖父さんがあたりをうろついていて、少し経つと寄って来て、いくら集まったか調べて、自分のふところに入れてしまう。そしてこれはパン代だ、今度は煙草代を集めろって言うの。それからまたお金を貰うと、またお祖父さんが寄って来て取り上げてしまうの。そんなことしなくたってみんなあげるわ、隠しゃしないから、って私が言うと、お祖父さんは『だめだ、お前はわしの金を盗むのだ。ブブノワも言ってたぞ、お前は泥棒だとな。だからわしはお前を絶対に引き取ってやらんのだ。五コペイカ玉を一個どこへやった?』って言うの。お祖父さんに信用してもらえないので私泣いちゃったんだけど、お祖父さんは私の言うことなんて全然聞きもしないで、『五コペイカ玉を一個盗んだな!』ってどなって、その橋の上で私をぶち始めるの、とっても痛くぶったの。私わあわあ泣いてしまた……だから今思ったのよ、ワーニャ、お祖父さんはきっと生きていて、どこかを一人で歩いているんだ。私が行くのを待っているんだ、って……」

「命は大切」という理念ならざる理念、すでにしてつねに理念以上であるもの、現実、精神の現実、テーマにならないテーマ以上にわたしはテーマにするべきテーマを知らない。歴史を知る必要があるのも、考察する必要があるのも、このテーマにならないテーマをテーマにするのではなく、生きるためである。「命は大切」と思うのではなく、言うのでもなく、聞くのでもなく、生きるためである。負うべき責任を負うのではなく、負わなくてもいい責任を、いやむしろ負うべきでない責任を負うためである。それをわたしはイエスに倣って「愛」と呼ぶのだけれど。 

(→「またバルナバスなの!…女の子の文学5」……「愛」と呼ぶのだけれどと、いつかどこかで書いたと思い、探してみました。見つかりました。むかしこのブログがまだ掲示板だったころにした、カフカドストエフスキーサルトルをめぐるやりとりの中に。やはりテーマならざるテーマは、生きる、のようです。※文字化けしちゃってるときは、テキストエンコーディングを日本語(Shift jis)にしてください。)

*1:本当の意味での「国民主権」の国づくりをするために必要なのは、まず、何よりも、人のいのちを大切にし、国民の生活を守る政治です。……鳩山由紀夫首相の所信表明演説(2009年10月26日)

*2:ドストエフスキー罪と罰』第一部 2 訳・工藤精一郎 新潮文庫

*3:わたしはすべての虐げられた者たち、主体を奪われた者たちを「彼女」と女性の人称で呼ぶ。

*4:つまり、同じひとつの存在(註:ここでは「お祖父さん」)が「壁=システム」に見えたり「卵=人間」に見えたりすることこそが問題なのだ。……意志と自然の極北