Naked Cafe

横田創(小説家)

模倣の受難者

ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひ[隠ろひ]につつしづ心なけれ 茂吉

この歌を読みながら、ときに小さな声で口ずさみながら、わたしはこの歌を幾度も写生してきた。「イメージしてきた」と書いたほうが分かりやすいのだろうが、どうだろう、それではまったく違うような気がする。むしろ茂吉の「写生する」をまねびに「イメージする」をまなびたいとわたしは考えてきた。
イメージは「する」ものでなく「ある」ものなのだと茂吉は歌う。「もの」ではなく「ある」のなかに自分もあろうと欲する。ある? むしろ自己が消え入る。正岡子規の呼びかけに応えるように茂吉が短歌という目に見えるかたちで奇跡を起こした「写生」とはいったい何なのか。「短歌写生の説」のなかで茂吉はこう書いている。

実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。

「一元」とはつまり、いっさいの区別を失った状態である。自然も自己も区別を失った状態で「生」を写すとはどういうことか。たとえばそれは、風と自分の区別を失い、自分は「吹かれている」のか「吹いている」のか分からなくなり、「吹いている」のも「吹かれている」のも自分であるように感じる。吹いている自分に吹かれている自分? それを「自分」と呼ぶことに意味があるとは思えない。風は「風」のなかで吹くものであり吹かれるものである。自由に空を舞う風の又三郎のように。もはや「風」という言葉も必要ないのかもしれない。そこでもう一度この歌を読んでほしい。この歌のなかには「風」という言葉がどこにもないのに風が吹いているのだ。

ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ 茂吉

見えない風はどこに吹いているのか? というより、風はいつでも見えない。見えるのは揺れる洗濯物であり、流れる雲であり、葉の揺らめきであり……。沈黙のささやき、見えるものがそっと教えてくれる見えないものの祭りのなかへ。

紅[くれなゐ]のちしほのまつり山のはに日の入ときの空にぞありける 実朝

見えないものの彼方ではなく、むしろ見えるものにおいてしか表れることのない不安、孤独、静心なく打ち震えるかたち、そのシルエット。詩人にとって、見えるものはすべて見えないもののまなざしである。一元的な生、身体を持つ誰かの命ではなく生命そのもの、自然の威力、風と呼ばれるエネルギーのなかで、大きな葉っぱが樹にひるがえり、傾きかけた陽光がその裏側からチラッチラッとこっちを見ている。
たとえば、街路樹のポプラは風を「風」だと知ることもなく、風という表現の一部分として風に吹かれる。雨が降れば雨に濡れ、夜になれば外灯に照らされ、日が昇ればまた紫外線を浴びる。「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」とは、対象との距離を失い、自己の外へ放り出された視覚のなかで模倣する(〜の振りをする)、まねびからまなびを産み出す、経験できないものを経験する演劇である。
「傍観」という実に正直な言葉があるが、「見る」ことは本質的に経験と相反するものである。裁判にかけられる者を見る(傍聴席から)。磔にされる者を見る(十字架の下で)*1。殺される者を見る(殺されなかった者のひとりとして)。見るものと見られるものの距離は決して覆されない。その距離のなかで、つまりは言葉という嘘のなかで、詩人はみずからを磔にする。それが詩人という模倣の受難者である。たかが葉っぱのために? そう、たかが葉っぱのために。たかが桜のためにみずからの死を願わずにおれなかった西行のように。彼は亡霊ばかり演じた俳優である。世を捨てて、つまりは死んだ振りして、死後の夢ばかり見ていた名優である。

いのちをしむ人やこのよになからまし花にかはりてちるみとおもはば 西行

この「ひろき葉」は、「赤光」という時間を逆行する歌集に収められている。ただし初版の場合のみ。ぜひとも初版で読んでほしい。それは伊藤左千夫の「悲報来」から始まり「死にたまふ母」「呉竹の根岸の里」「塩原行」……、死後からその生前へ、大正から明治へ、さらに時間をさかのぼり、正岡子規へ、芭蕉へ、実朝へ、西行法師へ、そして「万葉集」を歌う(振りをしている)俳優・斎藤茂吉のまなざしである。


(……きのう朝方まで音楽家と俳優と演劇の制作者と音楽雑誌の編集者と、この風と葉っぱの話をしました。詩人にとって、見えるものはすべて見えないもののまなざしである。まったくその通りだと思う。2003年12月に『山形新聞』に寄稿した文章をいまのわたしが書いたものとしてここに転載します。)

*1:数々の対立や矛盾を経験した後、絶対精神がゴルゴダの丘において十字架にかけられる。ーー『精神現象学』はそんな衝撃的な光景で幕を閉じる。精神の長い遍歴はイエスの供犠がおこなわれた場所にたどり着く。精神は自然や歴史への自己外化を免れることはできず、その自己否定を概念的に把握し直さなければならない。ヘーゲルのいう概念とは、絶対精神が十字架に吊り下がり、絶命し、復活するありさまのことである。(西山雄二「ピラミッド、オベリスク、十字架 バタイユヘーゲルの密やかな友愛をめぐって」『現代思想 総特集*ヘーゲル 『精神現象学』二〇〇年の転回』所収) *言わずもがなのことだが「短歌」もまた「概念」のひとつの形式である。