Naked Cafe

横田創(小説家)

その他のすべてのもの

国民経済学、すなわち富についてのこの科学は、同時に諦めの、窮乏の、節約の科学であり、そして実際にそれは、きれいな空気とか肉体的運動とかへの欲求さえも、人間に節約させるところにまで達している。驚くべき産業[勤勉]の科学は、同時に禁欲の科学であり、そしてそれの真の理想は、禁欲的ではあるが、しかし暴利を貪る守銭奴であり、禁欲的ではあるが、しかし生産をする奴隷である。それの道徳的な理想は、自分の給料の一部を貯蓄銀行へおさめる労働者であり、そして国民経済学は自分のそうしたお得意の思いつきのために、一つの卑屈な芸術すらみつけだしたのであった。それが涙ぐましくも上演されたのである。それゆえ国民経済学は、──その世俗的な快楽的な外観にもかかわらず──真に道徳的な科学であり、なによりましてもっとも道徳的な科学なのである。自制、つまり生活とすべての人間的欲求との断念が、その主要な教義である。食べたり、飲んだり、書物を買ったり、劇場や舞踏会や料理屋へ出かけたり、考えたり、愛したり、理論的に考えたり、歌ったり、絵をかいたり、フェンシングをしたりすることなどが少なければ少ないほど、それだけますます君は節約しているのであり、それだけ紙魚にも埃にも蝕まれない君の財貨、君の資本が大きくなる。君がより少なく存在すればするほど、君が自分の生命を発現させることが少なければ少ないほど、それだけより多く君は所有することになり、それだけ君の外化された生命はより大きくなり、それだけ君は君の疎外された本質をより多く貯蔵することになる。国民経済学が君の生命から、君の人間性から奪いとるすべてのもの、それを彼は君のために貨幣と富とで補填してくれる。そして君にできないすべてのことを、君の貨幣はやることができる。貨幣は、食べたり、飲んだり、舞踏会や劇場に出かけたりすることができるし、芸術、学識、歴史的な稀覯品、政治的権力を[入手することを]心得ているし、旅行することもでき、君のためのすべてを獲得することができる。それはすべてのものを買うことができる。貨幣はほんとうの資力だからである。しかしこれらすべてである貨幣も、自分自身を創造すること自分自身を買うこと以外のなにごともしようとしない。なぜなら、その他のすべてのものは、実際のところ、貨幣の奴隷だからである。(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿 訳・城塚登・田中吉六)

資本主義経済のただ中にいるわたしたちにおいては、すべてのものが貨幣に集中する。わたしたちは豊かにならんがために貧しくなった*1。デフレなのではない。物価が下がりつづける悪循環にいまこの国の経済は陥っているのではない。いまに始まったことではない。禁欲を批判し、生命の発現の減少を嘆き、まるでわたしたちの購買意欲を煽るようなマルクスの姿勢に驚いたひともあるいはいるかもしれない。多くのひとびとが読まずに抱いているであろう共産主義のイメージとはおおきくかけ離れたことがここには書かれているかもしれない。だが問題なのは、需要と供給のバランスがうんぬんだとか、ジーンズが千円以下で買えるようになるほど物価が下がることは得なのか実はいずれかならず損することになるのかでも、失業率でも、国の金融政策でもその失策でも、補助金の出る出ないでも予算の仕分けうんぬんでもなく、それ以前にわたしたちが「その他のすべてのもの」と共に貨幣の奴隷になりさがっていることである。

「それに見合った給料は支払われているか」という実に奇っ怪で、奇妙奇天烈な問いをおおまじめにするひとがいる。たいていそのひとは、目くじら立てて怒っている。さらには同じその舌が「お金に換えられないものがある」とかのたまうのだから、謎はさらに深まるばかりである。いったいいくらもらえばわたしたちの一日は贖われるのか。いくら支払われれば労働に囚われたわたしたちの魂を救済することができるのか。「自制、つまり生活とすべての人間的欲求との断念が、その主要な教義である」偽りの宗教に、その声に耳を貸すなとマルクスは言う。共産主義が妖怪になる以前に妖怪であるもの、共産主義が、コミュニズムがおのれの全存在を賭けて否定し自己の魂と身体と共に消し去らなければならないもの、贖われなければならないもの、止揚されなければならないもの、それは「ヨーロッパ」であり「キリスト教」であり、その歴史である。それは同じひとつの主語であり主人である。明日のために今日を犠牲にしてでも貯蓄せよ、他人を踏みにじり犠牲にしてでも貨幣を獲得せよとわたしたちに命じているのはこの主人でありその構造である。

ワインを作るためのブドウを買う権利を買った男の話を聞いたことがあるだろうか。では、ワインを絞るための圧搾機を収穫の時期に借りる権利を買い占めた男の話は? その男たちがその権利を行使することなく権利を売ったり買ったりすることで利益を得るようになったという話は? こういうずるがしこさを賞賛するのをその旨とする雑誌をいま現在この国で発行されている雑誌から差し引いたらいったい何誌がコンビニのマガジンラックに残るだろうか。貨幣によって/において贖われ、救われてしまう「その他のすべてのもの」とはこの大地であり、動物であり、その息吹であり、わたしたちの労働ももちろんそこに含まれる。異教徒たちの大地を、その身体を、魂を奪うために南米へ、東南アジアへ、そしてアフリカへと船を差し向けたのは大航海時代の「ヨーロッパ=キリスト教」だけではなく、それは「資本主義」というかたちなきかたちに姿を変えて、ファンドを募り、投資された貨幣という名の権利[=権力]によって、いまなお暴利を貪っているのだ。アフリカの内戦の悲惨は起こるべくしていまなお起きている、資本主義に魂を売ってしまったわたしたち「ヨーロッパ=キリスト教」徒たちの罪過なのだ。「その他のすべてのもの」を抱えることの苦しさから逃れるために、ただそれだけのためにわたしたちはそれだけのことをしているのだ。

わたしたちはわたしたちの悲惨を、わたしたちの「その他のすべてのもの」をわたしたち自身の内へ留めておく必要がある。これはいつでも危急の、わたしたち自身の課題であり問題である。ある者はそれを「命」と呼ぶかもしれない。そして別のある者はそれを「生きる権利」と呼ぶかもしれない。だがしかし、わたしたちはわたしたちの悲惨を、わたしたちの「その他のすべてのもの」をわたしたち自身の内へ留めておく必要があることに変わりはない。

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

貧しさ

貧しさ

*1:我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった。(フリードリヒ・ヘルダーリン「精神たちのコミュニズム」 フィリップ・ラクー=ラバルト『貧しさ』所収 訳・西山達也)