Naked Cafe

横田創(小説家)

石の娘

先月、フットサルの練習にお呼ばれして、二十年ぶりにサッカーボールを蹴って、走って、ターンして、何度も転んで、膝を痛めた。わたしは膝を痛めた。わたしはわたしの膝を痛めた。痛めた膝はわたしのもので、ひどくわたしは痛みを感じていた。わたしの膝だと思っていた膝が、もはやわたしの膝ではないのではないかと思うくらいひどく痛めた。壊れた? 痛めた。痛めた痛めた書くからわたしだの、わたしの膝などとうるさい言葉が出てきてしまうのだから、ここはただ単に膝が壊れたと書くべきなのか。だがそれは誰の膝なのか。壊れた膝は、わたしの膝ではなかった。特に階段を登るとき、それはわたしの膝ではなかった。膝ではあるかもしれないけれど、わたしの膝ではなかった。自分の膝から下がそこにあるまま消えたような、石になったような、恐怖の体験だった。

痛みという言葉の落とし穴をわたしは見つめた。大事なことを口にするとき、あるいは書くとき、実によく使われる言葉である。自分のおなかを痛めた子ども。なのに愛せないも、だから誰よりも愛しているも根は同じだ。愛と痛みを結びつける思考が働いていることには変わりない。仮にもし自分の子どもが石であったら。そこにはどんな小説が、言葉の私生児が流れ出てくるのか。泡のように隣りの言葉とくっつきながら膨らみ、あるものは破裂し、またあるものは泡の内側にぽこぽこ子どもを宿すように増殖してゆく言葉の透明を見つめるようにして考えていた。渡邊聖子の写真を見ながら、壊れた左膝のまん中で石のようにごろごろしている骨をさすりながら、わたしはそんなことを考えていた。

……渡邊聖子「否定」 会期:2010/02/23〜2010/02/28 企画ギャラリー・明るい部屋
参考:artscapeレビュー(飯沢耕太郎氏)