Naked Cafe

横田創(小説家)

わたしの目の前に、まるで本のように 表象論3

一人の死者を注意深く眺めていると奇妙な現象が生じる。体に生命がないことが、体そのものの完全な不在と等しくなる。というよりも、体がどんどん後ずさっていくのだ。近づいたつもりなのにどうしても触れない。これは死体をただ見つめている場合のことだ。ところが、死体の側に身をかがめるなり、腕か指を動かすなり、死体に向けてちょっとした身ぶりを示すと、途端に彼は非常な存在感を帯び、ほとんど友のように打ち解ける。(ジャン・ジュネ「シャティーラの四時間」訳・鵜飼哲 『インパクション51』所収)

死体のある死と、死体のない死。死体は思うこと*1と見ること*2のタイムラグ*3である。そのときわたしは、いまこの瞬間に死のときを迎えたあなたがずっと、あなたの代わりを演じていたこと*4を知るのである。

わたしはずっとあなたを見ていた。あなたをあなたと思って、あなたを見ていた。だけどそれはあなたでなかったことを、死体[body]となって横たわるあなたを、あなたの死体を見たとき、わたしは知ったのだった。

確かにそれはあなただった。けどそれはあなたではなかった。わたしはずっとあなたではないものをあなたと思って見ていたことになる。

そんなおかしなことがあるだろうか。まるでマトリックスの世界をはじめて知ったときのネオのような気分である。肉ではない肉を、肉の表象に食らいつき、咀嚼しながら「無知は幸福」とつぶやく裏切り者と同じ絶望にわたしは嘔吐する。

つまり、いまここにある=見えるものはすべて、それでないことでそれであるものrepresantationである。現前するものはすべてなにかの代わりでありその痕跡である。だからといって、その「なにか」が先にあって、そのなにかの「代わりのもの」をわたしたちは見ているのではない。「……の代わり」という運動自体が「なにか」をいまここに、たとえばあなたの体[body]をいまここに、わたしの目の前に、まるで本のように開いて見せてくれているのである。だからこそ腕か指を動かすなり、本に向けてちょっとした身ぶりを示すと、途端に彼女は非常な存在感を帯び、ほとんど友のように打ち解ける。

本も体も痕跡である。あなたはあなたの傷である。あなた「の代わり」の、余白*5の傷である。わたしたちはその傷から読書という、あるいは生きるという果てのない旅に出る。

パレスチナ人たちのかたわらで──彼らとともにではなく──過ごした時間の現実が、もしもどこかに留まるとするなら、うまく言えないが、この現実を語り伝えようとする一つ一つの言葉のあいだに保たれ続けるだろう。実際にはこの現実は、紙片のこの白い空間の上に、中をくり抜かれながら、というかむしろ、言葉のあいだにぴったりと把えられながら、身をちぢめ、おのれ自身に合体するまでになっている。言葉のあいだに、であって、この現実が消えていくために書かれた言葉自体の中にではない。あるいは、言い方を変えるとこうなる。言葉のあいだの規則正しい空間には、この言葉自体を読むのに必要な時間にくらべて、現実がより多く詰め込まれている、と。[…]私の本のこの最後のページは透明である。(ジャン・ジュネ『恋する虜』訳・鵜飼哲/海老坂武)

*1:思惟

*2:延長

*3:差延

*4:代補

*5:「彼女の余白」参照http://d.hatena.ne.jp/yokota_hajime/20081220/p1