Naked Cafe

横田創(小説家)

きみをも私をも超越したこの贈り物

わたしたちは、経験でないものまで経験することができる。これはなにより精神分析学によるところが多い発見であり実践でした。そしてその解明であり治療でした。それはもちろん、いまなおつづく旅である*1

ストレスというなんともゆるい言葉に一手に担われてはもったいないほどの謎が、力が、たとえば胃痛という経験にはある。わたしたちはもうすっかり慣れてはいるけど、わけてもこの「ストレス」という言葉によって抑圧されているだけのことで、よくよく考えてみれば不思議なことである。まるで花を見つめ過ぎたために溶けてしまうようなことが(花が? それともわたしが? あるいは花でもわたしでもないものが?)、わたしたちの精神と胃とのあいだで起きている。それが胃痛と呼ばれる経験でないことを経験することなのだから。

腹部を切開するような大手術を見学すると、特に男性は、十人中九人、つまりはほとんどのひとが失神するという。これもよくよく考えてみればおかしなことである。いわゆるところのカリスマ的な人気を誇るロックのコンサートで、特に欧米の女性たちが失禁するのも、おかしなおかしな、とてもおかしなことである。失神。そして失禁。茫然自失の体。もはや精神と身体の繋がりを考えるだけ無駄だろう。もったいぶらずに言えば、まちがいなく、それは同じものである。精神と呼ぼうが身体と呼ぼうが、繋がりと呼ぼうが同じことである。

その根底には、まちがいなく自殺という企てがある*2。ただし、いま書いたように、精神と身体の繋がりを企てるのではなく、というか精神も身体も、そして繋がりという言葉をも無効にすること。それが自殺という企て、経験でないものまで経験することである。なぜなら、それを媒介してしかなにも経験することができないにもかかわらず、あるいはもしかしたら、だからこそ唯一それ自体を経験することができないもの、それがわたしの死であるのは、死とはわたしの経験そのものだからである。当たり前である。死を死ぬことはできない。経験を経験することはできない(直接的なものを直接受け取ることはできない、受け取るためには間接的なものが、表象されたものが/されることが、他者が必要である)。

経験を経験するためには、経験でないものという余地が、表象が必要なのである。ここまで書いてきて気づいたのだが、驚いたことにわたしたちは、経験でないものまで経験することができるどころか、経験でないものしか経験することができないのである。他人の手術を見学することは経験できても、自分の身体に施された手術を経験することはできない。いや、自分は確かに手術された、大手術を経験したのだと言うなら、それはまるで他人の手術を見学するように手術後に、あるいは手術前に経験した、経験でないことを経験した、まるで他人の手術を見つめるように想像した、つまりは表象したのである。いずれにしてもわたしたちは他人の手術という(わたしの)経験でないものしか経験することができない。他人の死を目撃すること。そこに立ち合うこと。その傍らにあること。見つめること。これがわたしたちの経験と呼べる唯一のものであることを、まるで証言するかのように書いたのは、モーリス・ブランショである。

だが、死に瀕してきみはただ遠ざかってゆくわけではない。きみはなお、ここにいる。なぜなら、きみは今、この死ぬということを、あらゆる痛みを受け渡す同意であるかのようにして私に委ねている。そして私はそこで、身を引き裂かれながらそっと身震いし、きみとともにことばを失い、きみの助けなしできみとともに死に瀕し、きみのかわりに死に身を委ねて、きみをも私をも超越したこの贈り物を受け取ろうとしているからだ。(モーリス・ブランショ「彼方への一歩」『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫より)

きみをも私をも超越したこの贈り物とは、経験でないものまで経験することである。それを長年わたしたちは「わたしたちは表象を食べて生きている」と言ってきた(ただの思いつきでふと口にしたこの言葉を、渡邊聖子が折に触れ思い出してくれたことでこの言葉が押しひらく意味に、余地に、地平のはるけさに気づかせてくれた)。写真を見ることは、経験でないことを経験すること、きみをも私をも超越した贈り物を受け取ろうとすることである*3

わたしは小学五年生のとき、はじめて見たヒロシマのことを思い出している。それはアメリカ人というヒロシマ人でないひとたちが記録のために撮影したフィルムであった。そんなものは所詮フィルムじゃないか、写真じゃないかと言うなら、フィルムや写真以外にわたしたちが経験することができるものをわたしの目の前に持ってきて欲しい。見せて欲しい。経験させて欲しい。殺されるのは簡単だ。死ぬのも実にたやすい。経験することだけが、いつも難しい。なぜなら経験とは、自分の死でない死を、他人の死を死ぬことだからである。

[石の娘]渡邊聖子 2010年9月4日 18:00 開場 @BlanClass

*1:十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』参照

*2:それをフロイトは「死の欲動」と呼んだ

*3:受け取ることは不可能である。あるいは、不可能なものをわたしたちは受け取る、つまりは表象する。