Naked Cafe

横田創(小説家)

体の畑

なんか最近、畑のような感覚で、自分の体のことを考えています。体内環境、とでもいいますか。ビタミン剤やゴマのセサミンのカプセルみたいなサプリメントが体にいいと信じているひとは、一度それを畑に撒いてみるといいと思います。かならずや無駄だと実感することができるでしょう。

おとといは麺と一緒に茹でたホウレンソウを、にんにくオイルで軽く炒めたパスタとともに、体の畑に散布しました。そこに釜ゆでシラスをのせて、いちめんにパルミジャーノ・レジャーノを振りかけました。畑の畝に、雪が降り積もるようにたっぷりと。

自分の体という畑は、わたしたちにとって、最も近い〈外〉であるどころか、直接手を加え、つまりは〈内〉在的に耕すことができる唯一の〈外〉なのではないでしょうか。

さきおとといは、豚肉の代わりに厚揚げを使ったゴーヤチャンプルー*1を、大根おろしを添えたイワシのフライパン焼き*2とともに体の畑に散布すると、豆腐、ゴーヤ、卵、カツオ節、イワシ、大根と、普通名詞で並べただけでも複雑過ぎて、そこでなにが起きているのか、すべてを把握することはできない無数の出来事が〈外〉の〈内〉で起きているはず。栄養素なんて所詮、普通名詞です。いやどんな固有名詞も、普通名詞の中にあります。そこに「固有」を見るも見ないも、わたしたちの思惟次第なのですから。自然数みたいなものです。自然がその通りのものであるとは思ってはならない。あくまでもわたしたちの理解を助けるためのものです。

わたしたちの体という〈外〉の〈内〉では*3まだ発見されていないものも含めたたくさんの細菌やウィルスが棲息しています。言うなら、わたしたちの体は苗床なのです。たくさんの生き物がそこで暮らしています。空き地みたいなものです。草がぼうぼうに生えているのです。ヤゴやタニシが棲息している川床の石の上に苔がびっしりと生えた沼地みたいなものなのです。

これからわたしは、畑のような感覚で、他人の体のことを考えてみようと思っています。それはおそらく〈演出〉と呼ばれる行為をする者の感覚のことです。なにが起きるかわからないという意味では、他人の体も自分の体も同じことです。この〈同じ〉は実に爽快で、孤独よりも絶望的な気分をわたしたちに与えてくれます。孤独は他人の体という畑のような感覚で。

きのうは半月切りにした茄子に、塩揉みするように醤油をかけて、少し置いてから絞った琥珀色の汁ごとご飯に載せて、大葉を刻んだのと貝割れ大根の粗みじんを振りかけてイワシの代わりにサンマを使っただんご汁と一緒に体の畑に肥料を与えました。ベランダの朝顔は、まだ花を咲かせています。ツルの先端を切っても脇からまたツルが出てきて、次々花を咲かせて昼には萎んで落ちているのです。彼女の脇から流れ出ているのは、きっと体の畑なのです。……神里雄大の演劇のトーク・イベントにふたたび、いや、みたび呼ばれて、なにを話そうかと考えていると、ふとこんなことを書いていました、考えていました。

→岡崎藝術座 『古いクーラー』@シアターグリーン BIG TREE THEATER (池袋) 2010年11月19日→11月28日 http://okazaki.nobody.jp/old-airconditioner/

*1:植松良枝・著『畑のそばでうまれたレシピ 温かい野菜料理』より

*2:高山なおみ・著『おかずとご飯の本』より

*3:この場所なき場所、運動を「内在平面」とジル・ドゥルーズは名づけました。