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ベストなものについて、つまりは好きなものについて"語る"ことはとても難しいことです。好きなのですから、難しいどころか、原理的に言えば不可能なことです(不可能でないなら、それは単に好きでもなんでもないことです)。けどそれを可能にするのが"語り"なのではないか。不可能なものと可能なものは、無意識と意識と同じで、対称的なもの(=反対の概念)ではないのだから、不可能なものを不可能なまま可能にすること、目に見えるものにすること、つまりはかたちにすること。それは、できるできない以前以後の問題で、つまりはやるかやならないか、ちゃんと嘘をつくかつかないかの違いしかないのではないかと、富岡多恵子の小説を読み始めてからつとにわたしは考えるようになりました。語ることは文学の実践、倫理以外のなにものもでもないのではないか。嘘をつくことにどこまで正直であることができるのか。
実はまだわたしが富岡多恵子の小説を読み始めてから三ヶ月も経っていません。けどこの三ヶ月はわたしにとって、めくるめく小説の、そして"語り"の季節でした。それはいまもまだつづいています。なんだか小説の青春時代のまっただ中にいるような気分なのです。やばい。富岡、やばい。ほんとにやばいから、ぜひ彼女の本を手にして欲しい。まずは『動物の葬禮/はつむかし 富岡多恵子自選短篇集』の「動物の葬禮」と「末黒野」を読んで欲しい。これでハマらなかったら諦めます。いや、絶対、小説が好きなあなたならハマるはずです。そしたらこのエセーで論じた『当世凡人伝』をネットのusedでも、古本屋でもいいから、がんばって手に入れて読んでください(いまのいま、11月8日の午前2時38分の時点では、アマゾンのusedで、215円で売られています!)。
ちなみにわたしはいま『仕かけのある静物』という1973年に出版された短編集を読んでいます。どれも素晴らしいけど、最初に収録されている「子供芝居」が好きです。三度つづけて読みました。未来の富岡多恵子の読者になるはずのあなたのために、その一節を引用します。
その上に、芝居に出てから一年近くたつにつれて、はじめはいやいややっていた芝居に、知らぬ間に熱中していることで、その熱中の中身を、キンは芝居の外側からふいに見られるのは、便所にしゃがんでいるのを他人にのぞかれるよりもっと屈辱に思ったのである。相手の女の子に、役の上で思い切り悪態をつく時、恋人との別れを悲しんで泣く時、借金が返せなくて身売りをさせる親をふりかえる時、そういうどんな役も、おっしょさんや若センセが教えてくれた所作をし、覚えたせりふを大声でいうのに、自分でも知らぬ間に、それは時に自分のあのおかんの叱る様子の真似であり、シズカさんのものをいう時の、ちょっと首をかしげた様子であり、父親と母親のやりとりの調子があったのだ。キンは、盗人のように自分が思えた。自分が母親に叱られて泣いた時のことまでも、その夢中で泣きわめいていた時のことまでも、自分はふいにもう一度芝居をしていた。……「子供芝居」
嘘をつくことにどこまで正直であることができるのか。『群像』のこの号には、彼女の対談が掲載されています!
- 作者: 富岡多恵子
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動物の葬禮・はつむかし 富岡多惠子自選短篇集 (講談社文芸文庫)
- 作者: 富岡多惠子
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