Naked Cafe

横田創(小説家)

自動音楽[バロック・ミュージック]


携帯電話で話すひとの声は、なぜあれほどまでに気になるのか、うるさいと思うのか。誰もが一度は考えたことがあるそんなことを、しつこくわたしは考えてきた。カフェで話しているのは、携帯電話で話しているその子あるいはそのおっさんだけではないというのに、ほかにもたくさんの声があり、話す相手が目の前にいるにしろいないにしろ誰かと話していることに変わりないというのに、なぜかその声だけが浮いたように気になる「携帯電話で話すひとの声」の秘密。たまたま同じカフェに居合わせた見ず知らずの他人であるのに他人であるままいさせてくれない言語の自動性。見ず知らずの他人の話す他人の代わりに話を聞いているわたしは見ず知らずのわたしで、すでに他人だ。すなわち第三者であるわたしにもわかる暗号で話すスパイがそこかしこにいるこのカフェのほうがどうかしていると言わざるをえない。コミュニケーションがうまくとれないことよりも、とれることのほうが不思議でならない、そんな気分にさせられる。などといまここに書くわたしは、言うなら、いまこれを読んでいるあなたと文字という名の守秘回線によってスパイ活動をしている工作員なのである。インターネットでなにをこそこそ見ているのかと気になり、パソコンの、あるいは携帯電話の画面を覗き込もうとしている恋人があなたの隣りにいるかもしれない。

それとは逆に、ビルや鉄道、高速道路に囲まれたちいさいおうちのように自分より頭ひとつ出たところで目配せし合う外国のひとびとに、わたしもこんにちはもさよならも愛しているもわからない外国語でなにやらひそひそ話をされているときはどうだろう。なにを話しているのかさっぱりわからないからこそ自分のことを話しているに違いない、いや絶対そうだ、そうに決まっていると思うかもしれない。そのなんとも言えない居心地の悪さの中に言語の自動性がある。意味と呼ばれるなにかがそこで作動している。たとえ母国語でも、話すたびに一から作り直しているわけではないどころか、そもそもわたしたちは、自分の意志で話をしてなどいない。言葉を話しているのではなく、まるで機械のように言葉に話をさせられ聞かされ意味の開けにさらされている。なるほどそうかと頷き、あるいはそうではないと首を振る。わたしたち自動人形は、誰でもいつでも声の化身だ。わたしもこんにちはもさよならも愛している知っている振りをして生きる。わけもわからないまま読み進めるミステリ小説を読んでいるときと同じ心持ちで、みずからの意志でみずからの意志を放棄し、この先どんな風景が見えてくるのかと目をこらし耳をすませる。そういえば『呪怨』は、あの世にも怖ろしい恐怖汚染の始まりは、とある高校の校舎の入り口に落ちていた、とある携帯電話を、とある女子高生が拾うことから始まるのだった。とある、とある、とあると登場する、なにも知らない自動人形たちによって、どことなく別荘を思わせる無国籍風の、とある一戸建て住宅の同じ風景の上に別の風景が同じ風景として(それこそが幽霊!)折り畳まれ上書きされ別名で保存される。物語のつづきが気になるのは、最初からなにかのつづきだったからだ。

表現すること/されることは、いまここで言うところの或る種の自動性に参加することである。スピノザにとってこの世界は、思惟であれ延長であれ、精神であれ物であれ神の表現であり自然の為せる技であることに変わりないのはそのためである。表現することは、なにかを作ることではない。一からやり直すにしても、一度目ではない。すでにそれはそこにあり、それはそれとして自動的に機械のように作動しているものを、出来事を身体として、あるいは精神として同時に表現し/されたものである。さて、携帯電話で話すひとの声である。それは剥き出しの自動性であり、誰も彼も、彼女も僕もきみもわたしもない、つまりは人称を無にする衝動、欲望そのものである。なぜなら声は言葉の運動、意味と呼ばれる実体であると同時に言葉としてわたしたち知覚される思惟と延長(精神と身体)という属性を同時に持つものであり、その様態として、ふとわたしたちは顔をあげ、居住まいを正し、首をまわして肩の凝りをほぐしながら、あれやこれやとあることないこと考える遠い目をして、注文カウンターの横の、男女それぞれひとつしかないトイレが空くのを待つあいだひそかに姿の見えない見知らぬ誰かの携帯電話で話す声を聞いている。なのにわたしたちは自分の意志で、精神の力によって/において自由に(とはつまり自己原因的に)行為していると根強く思い込みつづけるのはひとえに「身体が何をなしうるかをこれまでまだ誰も規定しなかったからである」とスピノザは言う。

このようにして、幼児は自由に乳を欲求すると信じ、怒った小児は自由に復讐を欲すると信じ、臆病者は自由に逃亡すると信ずる。次に酩酊者は、あとで酔いが醒めた時黙っていればよかったと思うようなことをその時は精神の自由な決意に従って話すと信ずる。同時に、狂人・おしゃべり女・小児その他この種の多くの者は、実は自分のもつ話したいという本能を抑えきれないで話すのに、精神の自由決意から話すと信じている。これで見れば、経験そのものも理性に劣らず明瞭に、人間は自分の行動を意識しているが自分をそれへと決定する原因は知らぬゆえに自分を自由だと信じているということを教えてくれる。それからまた精神の決意とは衝動そのものにほかならず、したがって精神の決意は身体の状態と異なるのに従って異なるということを教えてくれる。各人は自分の感情に基づいて一切を律し、さらに相反する感情に捉われる者は自分が何を欲したらいいのかを知らず、また何の感情にも捉われない者はわずかのはずみによってもこっちに動かされあっちに動かされするからである。
以上すべてからきわめて明瞭に次のことが分かる。それは精神の決意ないし衝動と身体の決定とは本性上同時に在り、あるいはむしろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意[デクレトウム]と呼び、延長の属性のもとで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定[デテルミナテイオ]と呼ぶということである。(スピノザ『エチカ』第三部 感情の起源および本性について 定理二 備考 岩波文庫上巻p.174 訳・畠中尚志)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

携帯電話で話すひとの声。それは、わたしのなかにはわたしはいない、あなたもいない、わたしのなかよりもなかにはわたしでもあなたでもない複数の顔を持たないものたちが、たとえばきのう、とあるカフェ(ていうか、渋谷のドンキホーテの隣りのフレッシュネスバーガー)では見知らぬギャルがソファの上で膝を抱えて手をたたき、大口をあけ馬鹿話をしていることを教えてくれる。また別の日、別のカフェ(ていうか、代々木八幡のフレッシュネスバーガー)では、全身これア・ベイシング・エイプに身を包んだおにいちゃんが脱いで左手にすぽっとはめた真新しいアディダスのスニーカーを紙ナプキンで磨きながら携帯電話を右耳と右肩のあいだに挟んで「あ、ほんと、ほんと、あ、そうなんだ、そうなんだ」と上擦った声をループさせながら、今夜クラブには誰が来るのか来ないのか、気でも違ったのではないかと心配になるほど何度も何度も確認している。いまここで不協和な音たちも、その背後では協和する音を、友だちとかいつもの仲間とか家族と呼ばれる和音を束で抱えて生きている。自動音楽[バロック・ミュージック]。携帯電話で話すひとの声でない、いまここで目の前にいる者同士話をしている声も、目には見えない携帯電話でつねに誰かと話をしている。対位法[カウンター・ポイント]。カフェの音楽の技法。きのうわたしは代々木上原のサンマルク・カフェの喫煙席で、新聞に載るような事件を起こしてしまった次男から電話があったんだけど、ちょうどそこへ救急車が通りかかって、え、聞こえない、もっとおおきな声で話してと話してもうまく聞き取れなくて、いらいらしている感じになっちゃったからかしら、ろくに話しもできないまま切られてしまった、携帯電話って嫌ねと一方的に旦那に話しつづける、ちょうどわたしの母親と同じくらいの年齢の女性の話のつづきを聞きながら読んでいた高村薫の『マークスの山』の刑事・合田雄一郎がひとり夜中に風呂場で白いスニーカーを磨いているのを見ていた。原宿のほうから滑り込んできた千代田線が頭の上を通過する。向かいのテーブルでは、おおともさんが、おおともさんがと、大友良英と知り合いであるのが自慢の男の話を、背を見ただけでは聞いているのかいないのかわからぬ男が、ぺぺん、ぺぺんとさっきから左の靴底を床に打ち鳴らしている。怪訝な顔してそれを見ていた若白髪の、縁なし眼鏡を掛けた男と不覚にも目が合う。新聞に載るような事件を起こした(らしい)次男の両親は、いまは光が丘にあるスーパー銭湯「おふろの王様」まで車で出掛けるか、幡ヶ谷にある普通の銭湯で済ませるかどうかの話し合いをしている。どうやら今夜長男一家が東北の、とある被災地から避難してくるみたいだ。わたしは小説の構想めいたものをメモするためオレンジ色のポメラを開く。自由間接話法とは隣人愛の技法である。

動物であれ人間であれ、その身体をそれぞれがとりうる情動群から規定してゆこうとした研究にもとづいて、今日エトロジー[動物行動学、生態学]と呼ばれるものは築かれてきた。それは動物にも私たち人間にもそのまま通用する。とりうる情動を誰もあらかじめ知りはしないからだ。[…]たとえばある動物についてなら、その動物が、無限の世界のなかで何にかかわらないか、何に対して正または負の反応を示すか、どんなものがその食物となるか、どんなものが毒となるか、それは、何を自分の世界に「とらえる」か。どんな音符も、それと対位法の関係をなす音符をもつ。植物と雨、クモとハエというように。すなわち、どんな動物も、どんなものも、それが世界と結ぶ関係を離れては存在しない。(ジル・ドゥルーズスピノザ 実践の哲学』第六章 スピノザと私たち 訳・鈴木雅大)

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

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マークスの山(上) (講談社文庫)

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s(o)un(d)beams

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