Naked Cafe

横田創(小説家)

〈ダメな女〉たちへ

芸能人は、多忙による擦れ違いで別れる。世間はそれ以外の方法で芸能人の夫婦を、あるいはカップルを別れさせてはくれない(多忙でなければならない、そして、擦れ違いでなければならない)。おしゃれに目覚めたばかりの中学生の女の子は、不自然なほど、ぴんとなった前髪をピンで横様に留めなければならない(ワンポイントは付いていてもいなくてもいいが、マクドナルドは三人以上で、できれば大人数で入らなければならない)。若くて生きのいい野心溢れるサラリーマンのおれの靴の先は四角に尖ってなければならない(これについてはノーコメントでお願いします)。

言わせて欲しい。こんなことを急に口走り始めるわたしをゆるして欲しい。わたしが、たまにだが連れて行かれるカラオケで歌う曲が、女性ボーカルの、それも〈ダメな女〉が〈ダメな女〉である自分を歌った歌しか歌えなくなってひさしい。最初はDJ HIROKAZに教えてもらってハマった古内東子の「心にしまいましょう」で、日本語の特異性というか癖というか、要するに早い話が悲しみを、そのどうしようもなさを引き受けたうえで、これ以上ないというほどしっかりとR&Bしているソウルフルなこの曲を歌うのは極めて難しく、ましてや男のノドや肺、鳩胸ならまだしもただ単にぶ厚いだけの胸板を持つわたしのような者が歌うのは、歌手あるいはボーカリストと呼ばれる特殊なひとたち、平井堅徳永英明ででもない限り不可能なのはわかっているのだが、不可能であるのを承知で、それでもわたしには歌う必要がある。なぜならわたしは〈ダメな女〉だから。

女ではないにもかかわらず〈ダメな女〉であるわたしだからこそ言えることだから言わせて欲しい。女でありかつ〈ダメな女〉であるあなたにはきっと言いづらいどころか、口が裂けても言えない、言いたくないことだと思う、思って当然だからこそ言わせて欲しい。〈ダメな女〉は最高である。特に、歌うと、よくわかる。わからないどこかで、わからないまま、ああ、わからない、どうしてわたしはこんなわたしなのか、なにをしても、誰と付き合っても、好きになれば即こんなわたしばかりがわたしになるのか、わからない、もう勘弁してよと絶叫しながらよくわかる。それでいい、いつもこんなふうに〈ダメな女〉のわたしでしかわたしであれないわたしであっても構わないどころか、いや、そうあるべきだ、誰もがわたしのような〈ダメな女〉であるべきだ、ていうかどうしてわたしのように、誰かを好きになって、そのひとと一緒になにかをしたくなって、ずっとずっとそうしていたいと思うのに、思っているのに〈ダメな女〉にならずに済むのかわからない。誰だって、たとえ女でなくて男であったとしても、誰も彼もが、そう、彼だって、いま付き合っている、愛しの彼氏の彼だって、わたしのような〈ダメな女〉であってくれたらわたしのこの悲しみの半分は消えてなくなり、まるで女同士みたいな温泉旅行ができるのに。おしゃべりしながらぷらぷら歩くように旅をすることが、旅するように生きることができるのに。などと淡い夢を見ずにはおれないからこそ言わせて欲しい。もう行かないで、そばにいて、と歌わせて欲しい。もう愛せないと言うのなら、友だちでもかまわないわ、と泣かせて欲しい。強がってもふるえるのよ、声が……。

ああ時の河を渡る船に オールはない 流されてく
横たわった髪に胸に 降りつもるわ星のかけら
もう一瞬で燃えつきて、あとは灰になってもいい
わがままだと叱らないで 今は
 (Woman "Wの悲劇"より 作詞/松本隆 作曲/呉田軽穂[=松任谷由実])

相米慎二が、あの短い、それこそ一瞬で燃えつき灰になる直前に歌った『風花』の〈ダメな女〉は、山奥の、来る予定のなかったペンションの食堂で、酔っぱらって手をたたき、やんややんや大騒ぎをする見知らぬ男たちを、ビールコップ片手に頬杖ついて見つめる。ダメな男はダメではない。右に左にと、なんでもかんでも対称的にできていると思ったら大間違いで、男である限り、ダメな男はダメではない。ダメになれない。安吾の言葉で言えば〈堕落〉が足りない。キルケゴールの言葉で言えば〈絶望〉が、人間的にいって、もはやいかなる可能性も存在しなくなるそのときを、深淵を見ていない。アメリカは男でありつづける限り、パレスチナという〈ダメな女〉の悲しみを、その愛の深さも浅さもない絶望を、ハイデガーなら〈運命〉と呼ぶであろう罪を、転落を知ることはないだろう。危険なことは百も承知で言わせて欲しい。できることならパレスチナは国家ではなく運動であるままでいて欲しい。インティファーダという偽の祭典のない、石は投げてもロケットはスデロット市に打ち込まない、もちろん胴のまわりに巻いたプラスチック爆弾を隠し持つような、昔といってもほんの十数年前の少年のような自暴自棄にもならない抵抗を、女のあがきを、絶望を見せて欲しい。〈ダメな女〉のままでいて欲しい。

なぜなら〈ダメな女〉は、ダメである限りダメではないから。〈ダメな女〉が本当に、とはつまり偽の意味でダメになるのは〈ダメな女〉でありつづけることを諦め、ダメでない〈ダメな女〉になると偽の決意をするときだから。男との、彼との関係を断ち切り、有象無象を退け、やおよろずの神に見守られ、支配も被支配もない、女だけの自由な国を、独立国を建設しようとまるでイスラエルのように欲望するときだから。そうではなくて、まどか☆マギカ暁美ほむらのように、永遠に永遠を盛るような、関係という名の内戦のさなかを生きて欲しい。男たちとの果てなき泥仕合を戦いつづけて欲しい。結婚なんて卒業式と同じで、ただちょっと自分の人生に区切りをつけて振り返りたいだけなのだから。そうでもしなければ、おとうさん、おかあさん、わたしを産んでくれて、育ててくれてありがとう、なんて言葉を口にする機会がないその機会は、その言葉は墓場まで持っていって欲しい。親不孝者だけが不幸な子供を産みも育てもしないのだから。ひとりで生まれてひとりで死んでゆく人間には、産むも育てるもありゃしないのだから。自分の人生がどんな人生だったかなんて、捨ててきた男たちのファンタジーの中で生きつづければいい(わたしには肉があり、肉のわたしには頭もあるし性器もある)。いつになってもずわずわで、かたちがさだまらず、こんな歳になってもまだ自分が誰だかよくわからない(いくつになっても娘で、女の子な気分でいるわたしを諦めさせるために「おばさんだから」なんて言えない、文字通り、死んでも言えない)。きょう一日、自分はなにをしたのだろう、なにかひとつでも納得できるまでしたこと、できたことがあるだろうかと、おでこに貼りついた言葉を手繰り寄せた途端に数珠つなぎの、物思いという名の底なし沼に足をとられ、このままずーっと自分はなにものにもならぬまま、なにも為せぬまま終わるのではないか、死ぬのではないかと震えぬ夜はない。

ああ時の河を渡る船に オールはない 流されてく
やさしい眼で見つめ返す 二人きりの星降る町
行かないで そばにいて おとなしくしてるから
せめて朝の陽が射すまで ここにいて 眠り顔を 見ていたいの