Naked Cafe

横田創(小説家)

朝までずっと流れているのに、誰にも聞かれずにいる音楽

ハラカミ・レイ[rei harakami]の音楽の偉大さは、和音の響き中のひとつの音として音をとらえるのではなく、或るひとつの音の中に別の音を響かせたことにあると思う。揺らぎとも、響きとも、ときには不安とも呼ばれるそれは音の効果ではなく、音のふるさとなのだ。彼が見出したその地平は、どこまでのひろがりを持つものなのか。それ以前に音とは「持てる」ものなのか。点なのか波なのか(ドゥルーズの言葉で言えば、線なのか)。認識できるものなのか。そのひろがりに限界はあるのか。人間の耳(=鼓膜やスピーカーのカーボン紙やヘッドフォンの共鳴板)しか持たないわたしたちには、びりびりと震えるだけで、いくら耳をすませてもその全体を聞くことはできない、音が音として認識される前の、揺らぎとも、響きとも、ときには不安とも呼ばれる音ではない音、音の関係が、たとえば『lust』と題されたアルバムののっけから、音の彼方から、音とは別の存在の仕方で鳴り響く。これほど徹底的に無神論者としての態度を貫くことで、もはや神のものでも人間のものでもなくなった(=神からも人間からも自由になった、そして誰のものでもなくなった)宗教音楽をわたしは知らない。

関係における、関係としての自由*1。それは予防接種を断固として受けず、ありとあらゆる細菌に、ウィルスに汚染され、内側から腐り始めた体を横たえ、滅びゆく肉としての自己を見つめる羊の最後のひとくち、その無駄な食事によって捕食される草原の稲科の植物にだけにふさわしい、たとえばそんな音楽である。丈の低い草のひろがりの中を飛び跳ね重なり合うちいさな放物線を描くバッタや蝶の住み処である草原の朝靄の向こうから、或るひとつのトーンが風となり、ひと息に海まで吹き抜ける。誰のものでもないことでしか、誰のものでもあるものになれないことを、その風に揺れる者たちは知っている("come here go there")。こっそりと工事現場で働く男たちを見ている、ひとりの女の子がいる。彼女はどうしようもなく、白を通り越して誰の目にも見えなくなってしまった透明な光を無駄に放出しているアドバルーン型の照明灯が好きなのだが、そんなことなど男たちは知らない。急ぎ足で操車場の線路を跨いで、どんなにオタクなひとたちだって乗ることのできない運転席が剥き出しの黄色い電車に飛び乗り、欄干にぶらさがったまま橋の下を行ったり来たりしているのを彼女が二時間も見ていたことなど誰も知らない("after joy")。買ったばかりのオートバイをすぐに転ばせてしまう気がして、気が気でなくて五分も高速道路を走っていられなかった、ガソリンスタンドのバイト仲間からアカオと呼ばれている高校生の、半端な不良の男の子は、灯りの落ちたサービスエリアの端の車の枕みたいな駐車場の石に腰を降ろして朝まで慣れないタバコを吹かして過ごした。目の前に、端が見えないほどおおきくてこんもりとした夜よりも暗い森があった。あとで地図で調べてみようと思った("last night")。明け方の台所を、それも流しの上の出窓の掃除をするのが彼女の癖だった。キャミソールの下は、強く引っ張ればいつでもすぐに穴が開きそうなほど薄くなった水色のショーツしか穿いてなかった。十階建てのマンションの十階に彼女はいるのだが、その全体が彼女の下半身であるかのように腰から下が重い夜だった。隣りの部屋に住む老人が、歯磨き用のプラスチックのコップを流しに置く音を聞く、ちょうどそれくらいの距離感で自分の腸の中を蠢く、さっき下の駐車場で別れたばかりのカレシと食べたうなぎの小骨を彼女は想像している。うなぎは夏に食べると胃もたれする。台所の出窓で芽を出したジャガイモの、しわしわの皮だけで作ったきんぴらごぼうをカレシに出しても、うまいうまいと言うだろうか。決してこだわりがあるわけではないこまこましたものを、出窓に並べ直し終えたときには妹の結婚式には出ない、おめでとうも言わない、誰がなんと言おうとこのタイミングで結婚してはならないと最後まで言いつづけようとこころに決めていた("approach")。ゴキブリが公園の真ん中を這いまわっていた。隣りのテニスコートの入り口に「不審者に注意!」と書かれていた。ずっと前からトイレに行きたくて、ここに来たのにトイレがなかった。どこに行けばコンビニがあるかもわからなかった。なんとなく猫がいるかと思って呼んでみた。いなかった。逃げたのかも知れないし、植え込みの下に隠れてわたしのことを見ているのかもしれないけど、にゃーと出て来ないのなら、いないのと同じだった。ゴキブリがテニスコートと公園を隔てる敷石に到達した。ミスチルを熱唱する姿の見えない男が公園の横の坂を猛スピードで駆け下りていった。わりと最近買ったばかりのスニーカーを脱いだだけで、たいした覚悟もないままそのままおしっこをして、足首の内側から足の裏にかけて濡れた靴下をぶんぶん回して乾かしながら家まで帰った。おかあさんが「水曜どうでしょう classic」を見ていたから、横に座って最後まで一緒に観た。来年のカレンダーを月ごとに、みんなに「おんちゃん、おんちゃん」言われているオレンジ色の丸い物体のきぐるみを着たひとと一緒にミスターがポーズをとって撮られていた。ゴキブリのことをおかあさんに言おうと思ったときトイレに立たれて、結局言わずにお風呂に入って寝ました。おしまい("first period")。

朝までずっと流れているのに、誰にも聞かれずにいる音楽を想像すると、なぜかハラカミ・レイの音楽がわたしの耳には聞こえてくる。誰かがそこにいようがいまいが、音楽、そのすべてのレイヤーは、すべての者たちと言われる以前のすべての者たち、目に見えるなにものかであること、すなわちいまここに存在することが受容の条件にならない者たちのために、耳をすませばいつでも鳴り響く。存在とは別の仕方で存在するもの、つまりは生まれながらの幽霊であるがゆえに、名前も住所も知らない誰かからの、名前も住所も知らない誰かに宛てた手紙の中に、ぺしゃんこになった蝉の死骸が挟まれていて、びっくりしたひとの顔を見ることはできないのと同じ不安の中にある。ただしげしげと蝉の死骸を眺めるだけで、そのひとが声ひとつあげなかったことも誰も知らない。誰も知らないはずのことだけが音楽によって/において救われる。音楽は見ている。すべてのものを同時に見ている/がゆえになにも見ていない。目とは別のものによって見ている。見ないことにおいて見ている。簡単なことだ。なにも難しい話をしているわけではない。手紙を読んでいるとき、その手紙を書いたひとの顔を、目を、わたしたちは見ずに見ている。面と向かえば五秒と見ていられないはずのそのひとの目をまじまじと、そしていくらでも、なんなら朝までだって見ていられる。視線を合わせていられる。それが音楽という経験、経験としての音楽なのだ。

「私は見ずに書いています。やって来てしまいました。あなたの手に接吻し、そして引き揚げるつもりでした。私は引き揚げるでしょう、接吻という報いなしで。けれども、私がどれほど愛しているかをあなたにお見せできたなら、私はそれで十分報われたことになるのではないでしょうか。あなたを愛していると私は書く、そのことをあなたにすくなくとも書きたい。でも、筆が欲望のままに進んでくれるかどうかわかりません。私が口でそう言い、そして逃げ出すだけのために、あなたは来てくださらないのでしょうか? さようなら、ソフィ、おやすみなさい。来てくださらないということは、あなたの心が、私がここにいるのをお望みでないということです。闇のなかで書くのはこれが初めてです。この状況は私に、とても優しい思いをいくつも吹きこんでくれるはずです。それなのに、私が感じるのはたった一つ、この闇から出られないという想いです。あなたの姿をひとときでも見たい、その気持ちが私を闇に引き留めます。そして私は話し続けます、書いているものが文字の形をなしているかどうかもわからずに。何もないところにはどこにでも、あなたを愛していると読んでください。」ドゥニ・ディドロ(ソフィ・ヴァラン宛、一七五九年六月一〇日) ジャック・デリダ『盲者の記憶』訳・鵜飼哲 所収

……大崎清夏「暗闇をつくるひとたち」を読みながら。

近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治 (講談社選書メチエ)

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盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

*1:ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築