Naked Cafe

横田創(小説家)

豆腐の肉

(十月の、とある日曜日に、友だち夫婦の家で思うぞんぶん料理をさせてもらうという、なんとも楽しい機会を得た。ふたりが住む浜田山の白くて古いきれいなマンションの近くにあるカルディで乾燥キクラゲを見つけ、いまだに節電モードで薄暗い西友の食品売り場で鶏の胸肉と小松菜を大量に購入してその日わたしが作った料理の大半は雑誌『きょうの料理』の公式サイト「みんなのきょうの料理」を検索して選択したレシピである(その夜作ったもので、もっとも好評だった鶏の胸肉の青椒肉絲の元にしたレシピはこちら)。わたしはほとんど毎日このサイトを検索している。safariのブックマークバーの「料理」というボタンを押せば即開く。そして「スープ」とか「汁」とか「グラタン」とか「ハンバーグ」いった極めておおざっぱな料理名の隣りにひとマスあけで「豚挽き肉」とか「鶏レバー」とか「ジャガイモ」といった食材の名前を入力して検索する。基本的にプロの料理人のレシピしか掲載されていないこのサイトにはないと思われる、冷蔵庫の残り物的というか主婦まるだしな料理をするときは、ぐぐる。味噌汁にめかぶを入れてもいいのかな? まずいのかな? いや、実はイケるのではないかと思ったときは「味噌汁」「めかぶ」と入力してreturnキーを右手の小指で叩く(うまかった!)。これから紹介するのは、そんなふうにしてわたしが見つけたレシピである。そのほとんどが「みんなのきょうの料理」に掲載されていたレシピで、ブックマークの「料理」フォルダには、ざっと見積もっても二百か三百くらいの「みんなのきょうの料理」のオレンジ色のアイコンのついたブックマークが並んでいる(パソコンがクラッシュするたびに失われても、それはまたすぐに降り積もる)。はっきり言って一日中、今夜の料理はどうしようか、なににしようかと考えている。なんかちょっと違うな、そんな気分じゃないな、あ、これおいしそうだな、最初の最初に思っていたのとだいぶ違うものだけどこれでいいかな、いや、でも冷蔵庫の中には、などと近所のスーパーまで白いエコバッグを引っ掴んで買い物に行くまでつづく。肝心かなめの食材が売り切れていて手に入らなかったときのために二の矢、三の矢のレシピも用意して行く(そしてそれは往々にして起こる)。買い物リストは自分の携帯電話にパソコンからメールで送る。たとえば、もやし/えのき/にら/にんにく/豆板醤/イングリッシュマフィン/豆乳/木綿豆腐/卵/ピザ用チーズ(ちなみにこの日のレシピは「もやしタンタン」そーぐっど!)。レシピ本の付箋が貼られたものが、作りきれないほどたくさん順番待ちをしているのでメインは意外とすぐに決まるのだが、それでも副菜的なものと汁的なものの検索はする。相性、とか思う。栄養のバランス、というか必須アミノ酸とビタミンの組み合わせはかなり気にしている(おかげで最近タンパク質の勉強にハマり始めている)。カロリー計算はちいさいときに母親に鍛えられたので、しようとしなくても自然としている(なのに最近カップクがよくなり出したのは、ひとえに加齢のせいであると思われる)。料理は現実と空想の、成長あるいは老いと知の、どこまでも行ってもシミュラークルな異種格闘技である(内臓を切って開いて並べただけで何畳分くらいのフィールドになるのだろう)。わたしたちの血となり肉となるのは「わたしたち」という常にしてすでに「わたし」を超えたわたしの肉であり血である。食べるほうも食べられるほうも血であり肉であり、同じひとつの回路であり生成である(よってこの「わたしたち」には、食べるほうも食べられるほうも含まれる)。基本、なにかが変わったというよりも、変わらない、と言うほうが好きだから言うのだが、料理に3・11以前も以後もない。ずっとわたしたちはこうした格闘の末に、ではなくその途上で生きてきたし死んできた。代謝することが生きることであるのは細胞レベルの話だけではないはず。ひたすら栄養を吸収して臓器を形成しつづければ必ずや自分が望んだ以上の自分が鏡の永遠の中に出現するだろう(それをパラノイアと精神分析家は呼ぶのである)。冷蔵庫をすっからかんにするのは実に気分がいい(おかげで週に一度は年末がわたしのこころに訪れる)。目の前にランチの行列が出来ている(わたしはいま初台のオペラシティの吹き抜けの中庭を臨むエクセルシオール・カフェでこれを書いている)。そして今夜なにを作ろうかと考えている。きのうはコウ・ケンテツの「韓国風湯豆腐」と高山なおみの「カキとセリの炊き込みご飯」*1だったから、きょうはパスタにしようか、グラタンにしようかと考えているわたしもまた血であり肉である。無料の電波が飛んでいる幡ヶ谷のサクラ・カフェに移動してレシピを検索しながら書くことにする。)


厚揚げと小松菜のナムル
十月の、とある日曜日のその夜に最初に作った一品である。ナムルのうまさとそのお手軽さについては、あらためてここで語る必要はないだろう。基本、ゴマとニンニクと塩と砂糖で、わりとどころかかなりきつめの味付けをしてもメインの食材の邪魔には決してならないこの副菜こそが韓国料理の純粋、ほかのどの料理にも含まれる元素なのではないかとわたしには思われる。タイやベトナムの料理もそうだが、東アジアの料理は野菜が、特に葉物野菜がテーブルの上にところ狭しと並ぶところが、とにもかくにも嬉しい。ならばと肉の代わりになるだけの食べ応えと栄養価をを含む厚揚げと、チンゲンサイの代わりになるどころかチンゲンサイを食べたくなるときに無意識にわたしたちが求めているもの、そのすべてを含みながらチンゲンサイよりも食べやすく、味も濃く、色味も豊かで歯ごたえもある小松菜を使ってナムルを主菜にしたのがこのレシピである。そして、小松菜といえばこの中華そばである。


小松菜そば
ひそかにわたしが小松菜の翡翠ラーメンと呼んでいる、実に手軽でシンプルなラーメンである。なにはさておき見た目が素晴らしい。山奥の湖を思い出させるような濃い緑の破片がきらきらと浮かんだスープの表面がすーんとしている。実に静かなラーメンである。なのでこってり系のラーメンが好きなひとには残念ながらオススメできない。むしろこってり系のラーメンにうんざりしているひとが、自分でラーメンを作ってみたくなったときのためのレシピの叩き台というか好きな食材(たとえば、ジャガイモとウィンナー、キャベツと鮭、春菊と豚バラブロック)を代入して同じように1センチ角に刻んで湯の中に放り込めばオリジナルのラーメンを作ることができる形式にこのレシピはなるのではないだろうか。それくらいシンプルなこのラーメンの材料は小松菜と鶏のもも肉。スープはこのもも肉を煮ることで自然に作られる出汁を塩で味を調えただけの実にシンプルなもの。小松菜はもともとは江戸川区の小松と呼ばれる地区の菜っ葉。聞けば日本各地にはむかし小松菜のようなご当地菜っ葉が自生するかのごとくどこの畑でも栽培されていたのだという。野沢菜漬けで有名な野沢温泉の野沢菜しかり、富士の裾野の鳴沢村の鳴沢菜しかり、水菜や壬生菜といった京野菜ももともとは地元の市場や直売所でしか売られていなかった、あるいは自分で作って自分で食べていた究極の地産地消菜っ葉だったのだろう。みんなチンゲンサイの仲間でアブラナ科である。かつては三浦大根や練馬大根といったご当地大根もスーパーに並んでいたのにいまでは青首大根と呼ばれる箱詰めしやすい品種しか流通しなくなってしまった大根もアブラナ科。言われてみれば葉というか茎の断面が、小松菜の茎と同じ雨樋みたいなかたちをしている。ということは、小松菜の茎で菜っ葉飯を作れるのでは? カブの葉っぱの菜っ葉飯はとってもうまかった。そう。この誰もが好きな、誰もがわーきれーと声を上げてしまう菜っ葉飯の麺ヴァージョンが「小松菜そば」なのである。同じように厚揚げのレシピをもうひとつ紹介する。


キャベツと厚揚げのみそ炒め
このレシピを豚挽き肉抜きで、厚揚げだけで作ることをわたしはオススメする。厚揚げは大豆の肉である。大豆の肉を揚げたものだから、ちゃんとまわりに脂身のような衣もついている。豆腐という肉の唯一の弱点である、味がつきにくいところもこの衣が解消してくれる。そらにこのレシピのちょっと変わったところ、そしてすぐれているところは、味のベースになる味噌に梅干しを叩いたのを混ぜて酸味を加えていることである。中華の多くのレシピがそうだが(そして酢豚の中のパイナップルに代表される、多くの男性陣に不評なレシピなのだが)、こってりした味付けになればなるほど酸味が欲しい。我が家の定番である「梅肉入りしょうが焼き」は、夏になると食べたくなる一品である。インスタントの醤油ラーメンを煮るときに梅干しをひとつ落とすとレイヤーがまたひとつ加わって味にひろがりが出るし、ご飯を炊くときに一合につき一粒、種を抜いて入れて軽く混ぜて食べると胃もたれの防止にもなる(菜っ葉飯と合わせたら色も味も最高なご飯になるのではないか、といま思いついた)。


肉なしマーボー豆腐
なんだか、だんだんダイエットレシピの紹介記事みたいになってきたが、あなどるなかれ、この麻婆豆腐は絶品である。いろいろなレシピで、あるいはいろいろなお店で食べた味を見よう見真似で作ってきたが、これだけ豆板醤の辛みを軽快に楽しむことができる麻婆豆腐はほかに思いつかない。サンプルの画像をよく見て欲しい。とろみの中に二種類の豆腐が混在していることにお気づきだろうか。手で細かく砕いてフライパンでよーく炒った豆腐がこの麻婆豆腐の挽肉で、四角く切って湯通しした豆腐がこの麻婆豆腐の豆腐である。ぜひ「レタスとトマトのスープ」と一緒に。顆粒チキンスープの素はどれでも良いが、常に同じものを使うことが肝要であると思われるのは、かなりの塩分が含まれているからで、わたしは顆粒チキンスープの素を使ったスープを作るときは細かく刻んだザーサイを入れたりしてこれ以上塩を使わないようにしている。料理に使う塩は、ただ塩である塩ではなく、塩の代わりにもなる食材をできるだけ多く使いたいものである。洋食っぽいスープを作るときはベーコンを水から入れて弱火で煮立てて出汁をとりながら自然に塩分を加えて、和食の汁には野沢菜や高菜といった漬け物を入れて単純でない複雑怪奇な塩分気分を味わうことをオススメする。ということで今夜は「納豆入りおかず豚汁」を作る。


納豆入りおかず豚汁
きのうの夜「きょうの料理」で見たばかりのレシピである。まだ一度も作ってないのにオススメするなどという暴挙に打って出ることができるのは、いままでに数々のケンタロウレシピを作ってきたという自負があるからなのだが*2、そうでなくても作りたくなる食材がずらりと並んだレシピである。この豚汁は煮干しで出汁をとる、要は韓国風の味噌汁なのだが、ケンタロウの韓国料理(風も含めた)レシピにどれもおいしいから作ってみてよとオススメできるのは間違いなく彼には、こころと体が同時に震えて血と肉が混じり合うくらいの感動を韓国料理によって/において味あわされた経験が何度もあるからなのだろう*3。食べることが好きなことだけが料理人になる唯一の条件であることをわたしは彼のレシピと彼の出演する料理番組に教えられた。ケンタロウと言えばこれ。次に紹介する、料理の初心者でも簡単に作ることができるレシピは、複雑怪奇な塩分気分をキムチで見事に実現した我が家の定番レシピ十傑に入ること間違いなしの強者である。


肉キムチ豆腐
知らなかった。わたしはこんなにも豆腐が好きだったのか。知らなかった。豆腐好きの延長で豆腐を使った料理にハマっていたとは思わなかった。確かにわたしは大豆のタンパク質を信頼している。ただの代用食、肉の代わりのものとしてではなく、求められれば肉の代わりになることができる豆腐の力を常に欲している。豆腐は豆腐の肉である。植物性タンパク質によって構成された肉である。この地上のかたちあるものはすべて、動物であろうが植物であろうが、細胞レベルで見ればそのほとんどがタンパク質で出来ている。タンパク質をアミノ酸に分解して吸収したエネルギーによってタンパク質を形成し細胞分裂をくり返したその結果が、いや、形成しながら刻々と代謝しているタンパク質の運動そのものがわたしたちの胃であり肺なのである。などと考えながらこのレシピを料理をしているわけでも食べているわけでもないのだが、肉もキムチも豆腐も肉であることは、理論的にも経験的にもわかるような気がする。含まれるタンパク質の割合は、肉の肉も、豆腐の肉もそれほど変わらない。キムチの白菜も、もちろん肉である。


キムチハンバーグ
実はこのレシピも豆腐を使っているのだが、わたしがいままで作った豆腐ハンバーグの中ではこれがいちばんオススメである。えごまの葉を売っているスーパーはなかなかないので大葉を細く刻んでこんもり盛ったのと、粉唐辛子(チリペッパーでも一味唐辛子でも)を和えた大根おろしと一緒に食べれば、軽さと強さを、キレとパンチを同時に兼ね備えた正統派のボクシングスタイルのボクサー、若かりしころの具志堅用高のようなこのレシピの凄さをおわかりいただけることだろう*4。ハンバーグそのものが最初からオリジナルのない/オリジナルがありすぎるアレンジ料理なのでこのような素晴らしいレシピが生まれたのかもしれない。


白菜たっぷり煮込みハンバーグ
今年の冬は、夏終わりの台風による不作の鬱憤を晴らすかのように野菜の出来が良く、ことに白菜が素晴らしく、そして安いので作ってみたのだが正解だった。レシピにある、枝元なほみさんオリジナルの「ハヤシライスの素」の代わりにハインツのデミグラスソース缶を小鍋で温めて赤ワインを50ccほど入れてアルコールを飛ばしたものに、フライパンで焼いたちいさめのハンバーグと白菜の芯を入れて煮込んで仕上げに葉を加えてひと混ぜしたのをカレーのようにご飯と一緒に盛ってみたのだが、ひとくち食べるたびに感動した。肉に負けないくらい強い筋のある白菜もまた肉なのだと思った。葉と芯とである意味、骨付きの肉である(肉か野菜か、などと考えるのはもうやめようと思う)。ということで最後にジャガイモの肉のレシピを紹介する。このジャガイモは、実に食べ応えのある、肉らしい肉だった。


みそじゃがバター
言うならこれは、バターと醤油でシンプルに味付けされたジャガイモのステーキである。

*1:『今日のおかず』

*2:作りました。食べました。予想通り、いや、予想以上にぐっとくる汁だった。ほかの「冷蔵庫の残り物」でも試してみたい。

*3:『ケンタロウの韓国食堂』

*4:マツコ&有吉 怒り新党