Naked Cafe

横田創(小説家)

この先の方法

YES(or YES)

YES(or YES)

いま思えば橘上は、あのころからすでに同じことをしていたのである。あのころ、というのはわたしが雑誌『現代詩手帖』で映画評の連載をしていたとき、ふと投稿欄で目にした橘上(たちばなうえ? たちばなのうえ?)の「花子かわいいよ」(『複雑骨折』所収)という詩を読んで驚いて、興奮してあちこちに、たちばなじょう、たちばなじょう触れまわっていたころのことである。

 花子。かわいいよ花子。えっ何? 何でこんなにかわいいの? かわいい。本っ当にかわいい。かわいいわ。何つーか、その、かわいい。ばりばりかわいい。花子をミキサーにかけて、どろどろした花子ジュースをつくったとしても、絶対かわいい。もうヤベェ、ヤベェヤベェ。電柱があって、その電柱を花子と思い込めばかわいいもん。もう何だろうな。死ねよ。死んじゃえよ。何でお前みたいなのが生きてるんだよ。もう死んじゃえよ。マジで。(「花子かわいいよ」)

この詩の登場人物は花子ではない。正確に言えば、花子だけではない。かわいいも「えっ何?」「何つーか」の何もこの詩の重要な登場人物であることに気づいた者はミキサーやジュースがこの詩の通行人であり電柱がそこに立っていることに気づくだろう。それだけではない。ヤベェもこの詩によって/において重要な役を与えられている。ヤベェヤベェとくり返されている。電柱と花子とかわいいが死ねと死んじゃえよを連れてヤベェヤベェと歩いてくる。花子は確かに主役でこの詩の主人公だが唯一の登場人物ではない。いや、人物である必要はない。言葉であればじゅうぶんなのである。

ゆるしてくれよとぼくがいう ぼくみたいなぼくにいう いつでもだれでもよかったけれど、かなしみはいつもかなしめず、さびしそうにわらうだけ こんなふうにちからつきてみせる すきとおったぼくは あいつのおきにいり なまえをしらないけれどきにすることはない あいつもぼくをなまえでよばない (「この先の方法」)

この詩がこの詩によって/において言っている、というよりわたしたちの目の前でやって見せている=証明している通り「こんなふうにちからつきてみせる すきとおったぼく」は登場しない。「この先の方法」と題されたこの詩の主題は、ぼくの「この先の方法」ではなく、言葉の「この先の方法」である。ぼくでなくても「いつでもだれでもよかった」のである。

(ところで、かなしめないかなしみなどあるのだろうか。かなしめないかなしみは、それでもかなしみなのだろうか。それとも、もはやかなしみではないのだろうか。と、ぼくみたいなぼくにぼくはいう。いつでもだれでもよかったけれど、ぼくにいう。ぼくはいう。なまえをしらないあいつにぼくはいう。ぼくのしらない、ぼくをしらないあいつにいう。ぼくでないぼくはぼくなのだろうか。ぼくはぼくでなくてもぼくなのだろうか。ぼくでないものについてかたるぼくはぼくなのだろうか。ぼくでないものなのだろうか。それとも、どちらでもないものになるのだろうか。ことばになれるのだろうか。)

両義的でも多義的なのでもない。言葉はその言葉の隣りにある言葉である。隣りにある言葉の名付け親でも子でもなく、隣りにある言葉自身である。自分自身ではないもの自身であること、それが言葉であることである。言葉のこの本質なき本質を、自己なき自己を、かなしみを、意味とも論理とも隣人愛とも自由間接話法ともわたしたちは呼ぶのだけれど、ここでそう呼ぶ必要はないだろう。隣人は人である必要はない。愛とは人が人を愛することだけではない。かなしみだって、かなしみである自分を愛することができる日もあればできない日もある。ベテラン看護師がふと看護師である自分を看護師であったと、もうじゅうぶん自分は看護師であったと思う宿直の夜があるように。汚れて向こう側が見えない窓ガラスも窓ガラスである。赤ちゃんは、いづれかならずおおきくならなければならないわけではないのである。カバは自分がカバと呼ばれていることを、おそらく知らない。知らないと知ることもできない。かなしみは、かなしみと口にする、あるいは手で書く者のかなしみではない。かなしみはかなしみである。手や足がなくてもそのひとがそのひとであるように。死んだからといって、そのひとがいまここから、わたしの前からいなくなったからといってそのひとがそのひとでなくなったわけではないように。そのひとがそのひとでなくなってしまったように感じるのはむしろ、そのひとがそのひとであることを、きのうの夜、しゃべり過ぎてしまったと後悔する次の日の午後である。自由間接話法は、言葉を言葉で語る/語らないための、いつでも誰にとっても新しい「この先の方法」である。

あなたが新しく通り過ぎるなら 濡れたままでもよかったけれど 時計を合わせるのに 何年も費やしてしまったから それでもあのこははしらなかったから バスは予定通り来てしまう 何もさわらないで
バスは来さえすればいいのです さるひつようなどないのです 来てください 来るだけのバスでいてください (「雨」)

言葉で言葉を語ることはできない。なぜなら言葉は語るだから。語るでない言葉は言葉でないから。言葉であるとき、すでに言葉は言葉ではなく、語るであるほかないものだから。語るを語ることはできない。目に見えないものを目に見えないもので表象することはできない。雨は降ることはできても、雨は降るが降ることはできない。雨が降るが降るには、たとえばバスという降るはずのないものの愛が、かなしみが、摩擦が、突き刺さるが、傷が必要なのである。

バスは走る 雨になって走る 鳥と何度も摩擦して 先がじょうずにまるまった しゅうしょくされないあの塔へ いつかのあした、ふりそそぐ バスはあなた以外でいっぱいです バスは降る 雨になって降りながら 塔の上に突き刺さる 刺さりながらも車輪をまわして 空と摩擦し傷をつけ 傷口から 雨が降る (「雨」)

複雑骨折

複雑骨折