Naked Cafe

横田創(小説家)

小説にとってはすべての言葉がなつかしく、映画にとってはどんな風景もなつかしい

 なにかを見て思い出すのでも、思い出したいなにかがあるのでもなく、ただ「思い出す」という欲望だけが先に作動している。だから小説にとっては、すべての言葉がなつかしい。I Guess Everything Reminds You of Something=なにを見てもなにかを思い出す。これはアーネスト・ヘミングウェイの言葉だが、この言葉をタイトルにした短編小説はあまり好きではないどころか大嫌いだが、この言葉は見事なまでに小説のこころもちというか、こころここにあらずな感じをあらわしている。
 小説はいつもそわそわしている。なにを見ても自分はそこから来たのではないかと思う。生まれてはじめて来た街なのに自分のふるさとに見えるどころか、自分のふるさとなのに忘れてしまった街の中に自分はいるように感じる。言葉に折り畳まれて、忘れ去られた記憶の風景。わたしはそれを知っているような気がする。小説はいつもそこから始まる。すでに始められていたものに気づくことから始まる。
 たとえば、フィルター付きのタバコ、でもいい。ほんとうにいまわたしは思い出すまま、いや、なにも思い出せないまま書いたのだが、わたしにはなんの由来もない、えんもゆかりもないこんな言葉であってもなつかしい。暗闇に目をこらすようにして眺めていると思い出すはずもなかったことを思い出しそうになる。わざわざ「フィルター付きの」と言うくらいだから、このひとはたぶんふだんは両切りのタバコか葉巻を吸っているとちょっと自慢げに言いたいのだろう。もしかしたら、少し前に書いた「アーネスト・ヘミングウェイ」という言葉がわたしにこの言葉を書かせたのかもしれない。わたしに思い出させたのかもしれない。そうでないかもしれない。けど、そうであるかもしれない。いずれにしても、わたしにはそれを決めることができない。わたしはたったいま自分が書いたばかりの言葉を眺めて、自分のものではない自分の思い出を思い出すことしかできない。書くことしかできない。
 いま、小説が立ち上がりそうになった。わたしはそのつづきを書きそうになった。なのにわたしを思いとどまらせたものはなんなのか。翻訳の仕事と同じで、書くより前に知っていたこと、正確な知識と言えば聞こえはいいが、実は単なる思考の癖でしかない名訳の轍が道なき道をわたしが進むことを邪魔したのかもしれない。あるいは、主婦の浮気と同じで、いざとなったら急に家庭がかえりみられたのかもしれない。いまなお自分がからめとられているどころか、崩壊へ向けてあらたな一歩を踏み出そうとしているいまだからこそ実感できる確かなものが、不確かなものへわたしが歩み出すことを、参加することを押しとどめようとしたのかもしれない。あるいはわたしの前に「わたし」が立ちはだかったのかもしれない。わたしは「わたし」を超えない限り小説を書くことはできない。超えても、超えても、超えつづけるその限りにおいて、小説という新しい時間が、記憶にない記憶が、未来に投げ出された過去が、歴史がわたしの前にひらかれる。
 いつからだろう、もうわたしにはなにも書くことがない。いまも書くことがない。ただ予感のようなざわめきというか、そわそわし通しのこころもとない感じがあるだけで、書けるという確証なんてないどころか不安しかない。いつも半分夢の中で、ぼんやりと過ごしてきてしまったのはなにも二葉亭四迷だけではない。少なくともこの十年、いや、二十年、わたしはなにもしてこなかった。思い出すよりほかになにもせずに過ごしてしまった。もうじゅうぶんだろうと思うけど、いや、まだだ、まだ「もうじゅうぶん」と言えるほどぼんやりとは過ごしていない、ぜんぜん過ごしていない、自分をやり過ごしていないと「母を恋ふる記」の幻のような明るさがわたしの耳もとでそっとつぶやく。

…………空はどんより曇って居るけれど、月は深い雲の奥に吞まれて居るけれど、それでも何処からか光が洩れて来るのであろう、外の面は白々と明るくなって居るのである。その明るさは、明るいと思えば可なり明るいようで、路ばたの小石までがはっきりと見えるほどでありながら、何だか眼の前がもやもやと霞んで居て、遠くをじっと見詰めると、瞳が擽ったいように感ぜられる、一種不思議な、幻のような明るさである。何か、人間の世を離れた、遙かな遙かな無窮の国を想わせるような明るさである。その時の気持次第で、闇夜とも月夜とも孰方とも考えられるような晩である。しろじろとした中にも際立って白い一すじの街道が、私の行く手を真直に走って居た。(「母を恋ふる記」谷崎潤一郎

 この「際立って白い一すじの街道」を前にした「私」は、この小説を書いた当時の谷崎潤一郎でもなければ、幼いころの谷崎潤一郎でもない。かといって、書く「私」と書かれた「私」は違う「私」だ、などというよくわからないまま雰囲気だけで口に出されるような話をしたいのでもにない。「私」であろうとなかろうと、書かれたすべてのものを書かれたように、現にいまそこにそう書かれているように小説は眺める。そして考えるのだ、これは誰の風景であるのかと。誰が夢を見ているのかと。
 すべての小説どころか、書かれたすべてのものは三人称であるほかないことを知ったときの驚きをいまでもわたしは忘れない。「窓側のカウンター席で、フィルター付きのタバコを吸っている男が石畳の舗道を歩くわたしの顔をじっと見た。」も「窓側のカウンター席で、フィルター付きのタバコを吸っていたわたしは石畳の舗道を歩く男の顔をじっと見た。」も「窓側のカウンター席で、フィルター付きのタバコを吸っていた彼女は石畳の舗道を歩く彼の顔をじっと見た。」も、それをそのように見ている、つまりはそれをそのように考え、書いている誰かが、それともなにかが、もしかしたら「なにか」でさえない一人称のまなざしが、窓の外よりさらに外から、石畳の舗道に建つカフェの全体を眺めるようにして見ているという意味では同じように三人称である。
 あるひとつのまなざしの前では、すべては同じひとつの風景の中にあり、よりおおきいものとか、よりちいさいものとか相対化され、信であるとかないとか比較検討されている。「遠くをじっと見詰めると、瞳が擽ったいように感ぜられる、一種不思議な、幻のような明るさ」の中で「闇夜とも月夜とも孰方とも考えられるような晩」の風景を眺めるまなざしだけが一人称であるのだけれど、それが小説の中に書かれることはけっしてないのである。なぜなら書かれた途端に、それは三人称の同じひとつの風景の中に投げ込まれてしまうからである。
 だからすべての小説は、書かれたものは、一人称で書かれていると言うこともできる。ただしそれは直接的には書かれていない。小説の「中に」書くことはできない。近づけば近づいた分だけ遠のいてゆく地平線のように、三人称的な世界が一人称によって/において、どこまでも手前に押しひろげられるだけである。友だち四人で行った温泉旅行の写真の中に映っているのは三人だけで、カメラを持ったわたしがその中に映ることはけっしてないように。なのにプリントアウトしてみんなに配った写真の中に映った風景のどれもこれもが嫌になるほどわたしであると、わたしのすべてがそこに出ていると認めるほかないように。「全」と「一」。みんなとわたし。三人称客観描写/一人称現実参加という詐術がついにあばかれるそのときを、まなざしの孤独は待っている。見つめながら、見つめられるそのときを待っている。

其の時私はふっと、例のカサカサと云う皺嗄れた物の音が未だに右手の闇の中から聞こえて居るのに心付いた。白いヒラヒラしたものが、アーク燈の光を受けて、先よりは餘計まざまざと暗中に動いて居るようである。其の動くのが薄ぼんやりとした明りを帯びているだけに、却って一層気味悪く感ぜられる。私は思い切って、松並木の間から暗い方へ首を出して、そのヒラヒラした物をじっと見詰めた。一分…………二分…………暫く私はそうして見詰めていたけれど、矢張正体は分からなかった。白い物がつい私の足の下から遠い向こうの真暗な方にまで無数の燐が燃えるようにぱっと現れては又消えてしまう。私はあまり不思議なので、ぞっと総身に水を浴びたようになりながらも、猶暫くは凝視を続けていた。そうしているうちに次第々々に、ちょうど忘れかゝっていたものが記憶に蘇生ってくるような工合に、或は又ほのゞのと夜が明けかゝるような塩梅に、その不思議な物の正体がふいっと分かって来たのである。その真暗な茫々たる平地は一面の古沼であって、其処に沢山の蓮が植わっていたのである。蓮はもう半分枯れかゝって、葉は紙屑か何ぞのように乾涸びている。その葉が風の吹く度にカサカサと云う音を立てゝ、葉の裏の白いところを出しながら戦いでいるのであった。(「母を恋ふる記」谷崎潤一郎

 その「カサカサと云う皺嗄れた物の音」を立てる「白いヒラヒラしたもの」が「アーク燈の光を受けて」「薄ぼんやりとした明りを帯びているだけに、却って一層気味悪く感ぜられ」たことを忘れるために、三人称客観描写によってその恐怖を克服するために、言葉で説明するためにこの小説は書かれているのだろうか。それとも逆に、たとえそれが一面の古沼に植えられた「沢山の蓮」であることがわかったとしてもなお消えることのない恐怖の感触を忘れないために、一人称現実参加によってその知識を薙ぎ払うために、沈黙を守るためにこの小説は書かれているのだろうか。
 どちらでもあると同時に、どちらでもないとわたしは思う。この小説は「白いヒラヒラしたもの」を口をあけてただただ見ているのでも、それが「沢山の蓮」の葉だったと安堵しながら説明しているのでもない。両者はつねに争いながら拮抗している。「沢山の蓮」の葉もまた幽霊であり「ちょうど忘れかゝっていたものが記憶に蘇生ってくるような工合に、或は又ほのゞのと夜が明けかゝるような塩梅に、その[…]正体がふいっと」また見えてくるかもしれない。いつもこころがざわざわしている。書いていようと読んでいようと、この小説の中にいる限り、このざわざわがやむことはない。
 大正期に谷崎潤一郎が書いた小説が、のちに探偵小説とも推理小説とも呼ばれる小説の日本語による最初の作品になるのはもちろん偶然ではない。探偵小説と探偵小説でないものを器用に彼は書き分けたのでもない。すべての「映画は怖ろしい」ように(黒沢清)、すべての「小説は怖ろしい」のである。それは蓮の葉だったと、つまり怖れるに足らないものであったとわかったとしても、さらなる恐怖がその先で「私」を待ち受けている。それは『卍』の三角関係だろうが『台所太平記』の女中たちの日常だろうが同じである。もはや自分は見ているのか思い出しているのかわからなくなる瞬間の連続、非連続の連続。一人称と三人称が互いの背後を取り合う文体の格闘技。その逆転につぐ逆転だけが、なにかを思い出すことでしか見ることができない、見ればなにかを思い出さずにおれない小説のまなざしである。

 わりと古めの、敷かれた石の浮いたところから草が生えているような公園に、スーツを着て黒いバッグを抱えた男がよたよたと足を踏み入れると、イスにするにはちょうどいいオブジェなのか、でなくて最初から座るためのものとして作られたものに見えなくもない円筒状の柱に、公園で昼休みを過ごすサラリーマンが二、三人ちらほらと腰掛けている。これが最初のショットであり、一番はじめの風景。とりあえずその中のひとつに腰掛けた男の背後からのショットに切り替わると、ここがただの公園ではなくて、ホームレスのひとたちに炊き出しをしている公園であることが奥のほうに見えるひとだかりでわかる。これが二番目のショットであり、映画を観ているわたしたちにとりあえずの解答を与えてくれる風景。だが、その風景が一歩遠のき、後退すると、男と同じようなスーツ姿の男と薄汚れた作業着姿の男が並んで座って会話をしていることに男は気づく。「おまえ、ハローワークに行ったか?」「いや」「だめじゃないか。そんなことしてたら、オレみたいにここにいつづけることになるぞ」。これがこの場面の最後のショットであり、次の場面で男はハローワークの古い建物の中の、長い長い階段の列を、嘘だろ? こんなに長いのかという顔して見上げることになる。

 これは去年から今年にかけて公開されたばかりの黒沢清の映画『トウキョウソナタ』の中の一場面だが、いったいこれは誰が見ている風景なのかとわたしは考え始める。映画館を出てからひと晩考え、これは公園に足を踏み入れたスーツ姿の男、すなわちこの映画の主人公のひとりであるリストラされて失職中の父親自身が見ている風景であるという結論にいたる。なぜか。
 この場面を見ているわたしたちの目には、自分はいま夢を見ているのではなかろうかと彼が思っているのが手にとるようにわかる。彼は少しでも出費を抑えるためにホームレスのひとたちのために配られているカレーを手に入れなければならないと思いながらも、つまりは客観描写しながらも、そんなことまでしなければならない自分を現実として受け入れることができない。現実参加することができない。
 つまり、ここで演じられているのは、一人称による/における三人称の乗り越えである。がしかし、それはかなわない。くる日もくるにもただ公園とハローワークの往復をしているいまの自分を三人称的に彼はまなざすことが、直視することができない。ゆえに一人称(=ヒューマニズム的な意志、小説で言えば書く意志、映画で言えば撮る意志)が彼の中で育たない。ゆえに三人称(=リアリズム的な描写、小説で言えば写生、映画で言えば正確なショット)が彼の外で育たない。ゆえに共倒れしてゆく。弱い一人称(=中途半端な意志)は弱い三人称(=中途半端なリアリズム)しかおのれに求めず、強い一人称は強い三人称を持つことをおのれに求めるのだから当然と言えば当然である。彼はやがてなにもせず、そしてなにも見なくなる。景気が一気に後退してゆく。それは同時に家族の景気にも及び始める。「ピアノを習ってもいい?」「ダメだ」「アメリカに行ってもいい?」「ダメだ」と、彼は彼と同じように家族の者にも、知らず知らずのうちに、なにもせず、なにも見ないことを要求し始めている。
 やがて訪れる父親の、そして家族の破滅。この映画の主人公たちが三人称客観描写と一人称現実参加そのどちらの自分にも絶望し、そのどちらでもない自分の中に、彼らが思う外よりも外にある、彼らがけっしてまなざすことのできない他人のまなざしの中に自分自身を投げ出し裸になることができたそのとき映画が映画としての光を放ち始める。『トウキョウソナタ』と名づけられたこの映画は、リストラされて失職中の彼を最初から最後までずっと見ていた。この映画に寄せた言葉の中で黒沢清が語る「理屈を超えた、希望の片鱗」とはなんなのか。映画の最後で少年がピアノソナタを最初から最後までまるまる「一曲弾き終わること」がなぜ「理屈を超えた、希望の片鱗」をわたしたちに垣間見させることになるのか。それはわたしたちが、一人称/三人称によって/において自分自身を乗り越えようとする不可能なドラマを演じさせられつづけながら求めているのに求めることすらできずにいた自分自身を映画によって/において告げ知らされることになるからである。映画はわたしたちの姿を鏡のように映すのではなく、わたしたちが外と思っている外よりも外の中からわたしたちを、絶望的なまでにわたしはわたしであってわたしでしかないわたし自身の限界を、これでもかというほどくっきりと映し出す。ああ、そうだったのか、これがわたしだったのか、わたしはこうだったのかと、わたしはわたしを思い出す。映画とは、そして小説とは、わたしたちが中と思っている中よりも中にひらかれてある外に、風景の中に、そして言葉の中にわたしたちを連れ出してくれる「思い出す」という運動でありその痕跡である。「思い出す」を思い出す運動だけが「思い出す」である。
 死すべき人間であるわたしたちは「思い出す」ことを途中で諦めるかもしれない。だが小説は、映画は諦めることを知らない。ただ「思い出す」という欲望だけが「思い出す」の中で作動している。だから小説にとってはすべての言葉がなつかしく、映画にとってはどんな風景であってもなつかしい。
 たとえば、まっ赤なツナギを着てショッピングモールの床掃除や便所掃除をしている自分、でもいい。きのうまで大企業の総務課長をしていた自分がそんなことになるなど思いもよらぬことだったが、確か『トウキョウソナタ』とかいう映画によって/において堕ちるところまで堕ちて絶望的な朝を迎えたいまとなっては、そんな自分であってもなつかしい。なんだかむかしから、ずっと前から自分はそうしていたような気がする。わざわざ「まっ赤なツナギを着て」と言うくらいだから、よほど派手な作業着なのだろう。もしかしたら、まだ自分が大企業の総務課長をしていたころに家族で買い物かなにかをしに来たときに見かけたことがあるのかもしれない、まっ赤なツナギを着てショッピングモールの床掃除や便所掃除をしているひとたちを。そしてそのとき、いくら落ちぶれたとしてもああはなりたくないなあ、あんなことをするくらいなら死んだほうがマシだと思ったことがあるのかもしれない。そしていま自分は、それを反省しているのかもしれない。そうでないかもしれない。けど、そうであるかもしれない。いずれにしても、わたしにはそれを決めることができない。わたしはいまのわたしを眺めて思い出したことをわたしのこととして、わたしのするべきこととしてすることしかできない。生きることしかできない。
 いま、小説が立ち上がりそうになった。わたしはそのつづきを書きそうになった。一行だけで終わる小説がないのは、長さの問題ではなく、その一行に応答せずにはおれない小説の責任感の強さゆえの宿命である。などと言うともっともらしいが、実は単なるお節介なのかもしれない。これはこういう意味なのではないか、あれはそういうことが言いたかったのではなくて本当はこういうことが言いたかったのではないかと、たとえ誰が書いたものだかわからないものであっても、どこから来たのかわからない鼻唄のような思いつきや使い古されたテーマであったとしても、言葉の声に耳をすませてしまう。たとえて言うなら、知らないひとが書いた知らないひとへの手紙に勝手に返事を書いてしまう感じというか、道を聞かれて懇切丁寧に、聞かれてもないことまで説明しているときの感じに似ているかもしれない。なんならそこまで一緒に行きましょうかと、あやうく口から出かかるときの感じに似ていなくもないかもしれない。だいぶ頓珍漢なことを言い始めたかもしれない。
 要するに、馬鹿なのである。小説は、すでに書かれたいた言葉への愛をおさえることができない。極端な話、言葉でありさえすればどんな言葉であってもなつかしいのが小説である。小説家は、ではない。一人称で書かれたものであろうが三人称で書かれたものであろうが、小説の主語はいつでも小説なのである。

 ……『國文学増刊』(2009年6月号)「要するに、馬鹿なのである 〜小説のまなざし〜」を改題