Naked Cafe

横田創(小説家)

富岡多恵子初期短編(転載)

 富岡多恵子の短編集の中で、いまわたしがくり返し読まずにおれないのは『動物の葬禮』と『遠い空』と、そして1976年に一年間この『群像』に連載された『当世凡人伝』である。と三冊選ぶのが正直精一杯なのだが、なかでもいちばん中毒性が高いこの短編集の中に収録された十二編の中から、わたしなりのベスト3を選びたいと思う。

〈凡人〉という言葉は、富岡多恵子の初期の傑作長編『植物祭』の中に〈凡庸〉という言葉として登場する。〈不可解人物列伝〉として想起される奇妙なひとびとと比較されながら、この言葉の肌触りを確かめるようにして刻まれる。それは恋人の青年の凡庸な肉体でありその精神である。〈異常ではないもののうつくしさ。異常になり得るものをもたない肉体のうつくしさ。むしろ、凡庸な精神が肉体のすみずみまでゆきとどいた均衡といったらいいのだろうか。それでいて、その精神と肉体の所有者は、けっして鈍感な人間ではない。わたしには、だから、手の触れようがない。ただ、わたしはその人間を愛することしかできないではないか。〉

 ルイとミノというゲイの男の子たちの、とてもキュートでクィアな凡人っぷりが素晴らしい「ワンダーランド」を挙げぬわけにはいかない。たわいもない会話であるからこその、息もつかせぬ視線の交錯がアパートの一室で演じられる。一行=ワンショット。読むたびにため息がもれるほど贅沢かつシンプルな言葉のショットの切り返し。これほど鋭くそして柔らかいものは『おおきく振りかぶって』の美丞大狭山戦と『悪霊』のシャートフの殺害場面くらいしか思い浮かばない。〈小杉はパーティーのはじめからずっと退屈していた。しかし今夜こそ幸福であらねばならなかった。小杉はみんなが帰るまで帰らなかった。〉読者であるわたしの視線も彼とともに高級マンションの一室に、自然にパーティを楽しむことができるひとびとの中に取り残される「富士山の見える家」の、孤独な者にそっと寄り添うような視線は、「花」と題された次の短編の中で〈このひと〉という奇妙であるからこそ凡庸で主体のない主語となって現れる。これこそが奇妙奇天烈であるほかない者たちを、奇妙奇天烈であるからこそ〈凡人〉化する富岡多恵子の小説であり、その特異であるからこそなにもかも、誰も彼もを一般化する力としての自由間接話法の真骨頂である。〈このひとは、社員のさわぎのそばで静かにしているだけである〉〈もしこのひとに欲があるとしたらどんな欲だろうか〉と、社長のキクジに呼びかけ、近くて遠いその場所に寄り添うその声は誰のものなのか。一聴、妻の声のようにも聞こえるが、いや、そうではない。作者本人のものでもない。誰でもない。奇妙と凡庸。退屈と幸福。特異と一般。精神と肉体。反対であるものなどひとつもない。同じ〈このひと〉という主体なき主語が現れる最初の小説『丘に向ってひとは並ぶ』のときから富岡多恵子の小説はそうだったとしか、わたしには言えない。

……『群像』2010年 12月号に掲載されたものを転載します。

当世凡人伝 (講談社文芸文庫)

当世凡人伝 (講談社文芸文庫)

 
植物祭 (1973年)

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植物祭 (中公文庫 A 54)

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遠い空 (中公文庫)

遠い空 (中公文庫)

 
丘に向ってひとは並ぶ (中公文庫 A 54-2)

丘に向ってひとは並ぶ (中公文庫 A 54-2)