Naked Cafe

横田創(小説家)

種なしパン

高2の夏休みにこの本を読まなければわたしは作家にならなかった。なるほどそうか。そういうことかとこころの中で膝を打つ代わりにページの角を折る。折りすぎて折る意味がないくらい折った。おかげでその夏わたしは自殺をせずに済んだ。過越の祭。読書によって/においてわたしのその決断は先延ばしにされた。以来、本はわたしの種なしパン(マッツァ、トルティーヤ、ロティ)になった。本を食べ、言葉で息をすることで生きてきた。わたしにひとつの使命が課せられた。

すべての自殺者の尊厳を守れ。自由を敬え。畏れよ。安易な言葉で否定も肯定もするな。言葉の力能、権能、その限りにおいて想像せよ。

もしぼくが樹々にかこまれた1本の樹であれば、動物にかこまれた1匹の猫であれば、その生は意義があるだろう、というかむしろ生に意義があるかどうかという問題そのものが存在しないであろう、その場合ぼくはこの世界の一部であるのだから。その場合ぼくはこの世界そのものであるのだろう。だが、現実のぼくは、ぼくの意識のすべてによって、また永遠性と親密な関係を結びたいという要求のすべてによって、この世界に対立しているのである。あのじつにつまらぬ力しかもたぬ理性、それがぼくを全被造物に対立させているのだ。この理性を、ペンで一本線を引いて字を抹殺するようにして否定することはできない。だからぼくは自分が真実だと思うものを守りつづけねばならぬ。明証的だとぼくに見えるものは、たとえぼくを否定しかかってくるものであろうと、支持しなければならぬ。そして、世界とぼくの精神とのあいだのこの葛藤、この断絶の本質をなすものは、それについてのぼくの意識以外のなにものであろうか。それゆえぼくがこの葛藤・断絶の意識を維持してゆこうと思うときの方法は、たえず繰り返し更新され、たえず緊張させられている不断の意識によってである。この意識こそ当面ぼくが失ってはならぬものだ。この意識を保ちつづければ、きわめて明証的であると同時にきわめて把握しがたいものでもある不条理が、ひとりの人間の中に戻ってきて、そこに祖国を見いだすことになる。(アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』清水徹:訳)