Naked Cafe

横田創(小説家)

詩=人

『(世界記録)』の翻訳論の中で展開されていたわたしの詩論を最初の最初に批判してくれたのは山城むつみさんでした。二度読んだ、のひとことにも驚かされましたが(その後、彼の読書にとって「二度」は当たり前であることを知ることになるのですが)、いきなり切り込んできた「結局きみが言うところの散文性とは韻文性のことなんじゃない?」には返す言葉がありませんでした。この小説を書きながら、うっすらですが感じ始めていたことを指摘されて、でも書かなければならない、作品にしなければならない、わかりやすくしなければならないという思いがこの問題に蓋をしていた(=抑圧していた)ことに気づかされたのがこのときです。そしていま思えば、その瞬間がわたしにとって、はじめて弁証法に触れたときかもしれません。山城さんはわたしの「韻文/散文」「詩/翻訳」という存在論的な区別を、思考をそのひとことで止揚したのです。

数年前から、二項対立的思考を、森達也氏や斎藤美奈子氏が折に触れ批判しているのは記憶に新しいところです。正しい。これは圧倒的に正しい態度でありまっとうな批判です。けど、なぜわたしたちは二項を対立的に措定することでしか思考することができないのか、その原因、というか構造についてはあまり考えられていないような気がします。結論から言うと、なにかを「なにか」として存在論的にとらえている限り、思考すればかならず二項対立的にわたしたちは思考します。なぜなら「二個の者がsame placeヲoccupyスル訳には行かぬ」からです(夏目漱石正岡子規 往復書簡)。ならばモノ[物、者]でなければいい。止揚とは、関係と(しての)概念への志向性そのものである、というのがわたしの詩論のあらたな出発点となりました。

韻文(=詩)は散文と、あるいは翻訳と対立するモノではないどころか、あるのですらない。だから和解することも離別することもない。つまり、ある/ないの問題ではないところに詩はある/ないし、翻訳はある/ない。「ある=ない」という概念をわたしたちは「関係」と呼びますが、それこそが詩であると同時に散文であるものであり、存在を失うと同時に得るものであり、それはなにかというと「言葉」とわたしたちが呼ぶものなのです。当たり前ですが、詩も散文も言葉です。言い換えれば、言葉という絶対的に相対的なものを前にしては、詩も散文もないのです。言葉はすべてをあきらかにする、それをそれでないものにすることで、終わりもなければ始まりもない、際限のない会話の中で。

わかりにくいものをありがたがり、わかりやすいものを見下すのではない。わかりやすさ、明瞭さは努力して達せられなければならない。しかし、努めてわかりやすく書こうとした結果として達せられたわかりやすさそものが蔵する「わかりにくいもの」があるのだ。……山城むつみ「改行の可・不可」『新潮 1月号/08年』

それが詩であるなら「努めてわかりやすく書こうとした結果として達せられたわかりやすさそもの」も「わかりにくいもの」も詩です。前者は翻訳であり、後者は詩であり原文であるという(二項対立的な思考の)わかりやすさはわかりやすさそのものの中に蔵する「わかりにくいもの」をわかりにくくする。「わかりにくいもの」のわかりにくいところをわかりやすくすること。それが翻訳者と(しての)詩人の使命であるとわたしは考え始めています。山城むつみさんへの八年目の返答として。と同時に、わたしもアンケートの返答を寄せている『ユリイカ 特集:ドストエフスキー』への山城むつみさんの返答(「改行の可・不可」)への返答、即答として。『現代詩手帖 4月号』の中の「詩人と私 谷川俊太郎」特集に「詩=人」と題したエセーを書きました。