あるのではない。実はそこにないかもしれない。けど、見える。というより、あるのかないのかもはや問う必要も結論づける理由もないところに見えるものはあり、それは存在とは別の仕方で存在する/しない。つまり、見られる/見える。当たり前のことだが、わたしたちは毎日、見えるものを見ている。
見えるものを見る、などと言うと、なにかサボっているかのように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。見えるものを見ることはとても難しい。どれくらい難しいかというと、絵を描くことくらい難しい。写真を撮ることくらい難しい。わたしたちは毎日、見えるものを見ているのに? 毎日、見えるものを見ているからこそ難しい。
たとえば写真家は、ふだんわたしたちが見ているようで見ていない「決定的な瞬間」を「切り取って」見せてくれる特別な才能を持つ人間だと思われている(か、悲しいことに、写真家自身が思っている)フシがあるようだが、そんなことはない。彼女たちは見えるものをただ見ているだけで、なにも特別な「決定的な瞬間」を知っているわけでも、見ているわけでも「切り取って」いるわけでもない。写真を撮ることは見えるものの背後にではなく、見えるものそのものに思考を見ることであり、その思考に触れることであり、思考に思考させられ、想像させられることであり、何度でも描き直してかまわないどころか、何度でも描き直すことそのものなのだ。見ているようで見ていないものばかり(見えるものの背後に)見ているのはむしろわたしたちのほうなのだ。
見えるものを見ること、描くこと。確かにそう見えることを確かにそう見えるように描くこと。バフチンの言うところのポリフォニーも、ベンヤミンが言うところのアレゴリーも、三人称客観描写も、他者と自己のあいだにある差違でも齟齬でもズレでもギャップでもない。見えるものを見ること、描くという行為の中に、思考の中にそれはある。描くとは、自分が筆を持つまで、カメラを構えるまで表現されなかったものを表現するのでも、対象化するのでも、知るのでもない。表現されたものを表現されたように表現するのだ、思考されたものを思考されたように思考するのだ、演繹するのだ、論証するのだ。描かれたものがそこにあるからわたしたちは描かずにおれなくなるのだ。表現への意志だけが表現への意志に語りかけることができる、思考への意志だけが思考への意志に働きかけることができるように。
(どうしてそこに表現を見ることなく表現することができるだろう。そこに思考を、理性の働きを、能動性を、主体をみることなく描くことは、わたしには、レイプと同じ暴力に思える。果たして草は、樹木は、わたしの目の前を塵のように舞う夏の小蠅は、本当になにも考えていないのだろうか。海は、あの壁のようにそそり立つ空の青は、風景はなにも見ていないのだろうか。彼女たちだってちゃんと見ていることを、考えていることを証明し規定することができないからと言って、考えていないと、見ていないと断じることはできるだろうか。ある日突然彼女たちに話しかけられるような気がする。そして断罪されるような気がする。そんな怖ろしくも嬉しい、わなわなと震えるような予感に向き合うことだけが、わたしには、表現することであるような気がする。)
見えるものと見えないものがあるのではなく、見えるものと見ることの裂け目が、関係が、思考という名の見えないものがわたしたちに絵を描かせたり写真を撮らせたり言葉を書かせたり演じさせたり、……つまるところは表現させる。星は断然またたいている。誰がなんと言おうと、またたいている。またたいているものを「またたいている」と書くのがポリフォニーで、アレゴリーで、三人称客観描写であると言うなら、一人称はどこにあるのかと思われるかもしれないが、それはすでにここにある。見えるものと見ることの裂け目=関係=思考の中にある。私のことは私にしかわからない、同じことだが、私のことだから私にはわかるという実感や内面以上のフィクションはない。だから私を「私」と書くだけで、もうじゅうぶん過ぎるほど三人称客観描写で、もうどうしようもないほどポリフォニーで、素晴らしくアレゴリカルで、心身並行論的な表現であり、超越論的な思考なのだ。
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それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいるーー身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技法にのみ依存している、と。これというのも、身体が何をなしうるかをこれまでまだ誰も規定しなかったからである。(スピノザ『エチカ』第三部 感情の起源および本性について 定理二 備考 岩波文庫上巻p.171 訳・畠中尚志)
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