Naked Cafe

横田創(小説家)

これは、誰の、風景なのか

三人称で書くこと、書かれていることの意味。それはきっと、それを書きながら、そして読みながら、いま見ているこの風景は誰の風景なのか、誰の、どんな視線がわたしたちにこれを見せているのか、見ることを可能にしているのか、それを考えながら書くこと、そして読むことにしかないのではないかと、いまさっき、思った。その風景の前では作者も読者もない。わたしたちは、その意味を考えさせられている限り、わたしたちのままだ。

三人称で書こうと、書かれたものを読んでいようと、誰かが見ているものであることに変わりないから、誰なんだろう、誰がこれを見ているんだろうと、書きながら、そして読みながらわたしたちは思う。そこをあいまいにすることで書くことを、そして読むことを可能にするのがエンターテイメント系小説というカテゴリの定義であるというなら、なにがあってもそれはわたしたちの仕事ではないと思う。なぜなら、それは単に作者の肉体が、思惟が書いたものだからだ。夜風を「女の細い指に撫でられたような」と形容していた小説をコンビニで立ち読みしたことがあるのだが、書いた本人は三人称で書くことであいまいにしているつもりでも、まちがいなくそこには作者がいた。夜風を女の指になぞらえるその視線は、風景は、どうしようもなく男である作者のそれであり、一人称だ。しかもそのあと「どうして女の指というものは、いつもこう冷たいんだろう」と、女との情事を回想し始める始末。気色悪くて、本を落としそうになった。怒りにかられて、床に叩きつけたくなったのではない。あっけにとられたのだ。

三人称として認知されている形式を可能にしているこの「あいまいさ」と、わたしたちがいまここで明らかにしようとしている「誰の視線によって/おいて書かれているのか考えながら書くこと、そして読むこと」との違いはないと言ってもいいほどあいまいである。だが、それが誰の視線であるのか明示し/明示された瞬間に、わたしたちが考えることをやめることだけは確かである。それは一人称と呼ばれるものであるが、それはそれでまた別の違いがあって、早い話が、わたしが見ている風景が、つまりは「わたし」が一度も更新されない、キャラが変わらない一人称ほど無意味なものはない。なにもしてない、なにも書かれていないと言ってもいい、ただの愚痴か主張か趣味である。

三人称で書かれていながら、そして読んでいながら、それが誰の視線であるのかわからないまま書きつづけること、そして読みつづけること。それはもはや「つづける」という意識もないほどにつづくものだ。たとえば、きょうも、いまも降っているが、雨というのはいつ見ても不思議だ。誰がこれを、なにとなにとの関係が「雨」と呼ばれるこの風景を可能にしているのか、頭ではわかっているつもりだが、見ているうちに、たとえ窓を閉めて部屋の中に籠もっていても、雨音を聞いているうちにわからなくなる。これは、誰の、風景なのか。雨はいつでも無人称である。見ているだけで、雨音を聞いているだけで、わたしの一人称が更新される。その永遠のような瞬間の中に、三人称が無人称に近づく契機があるのではないか。一人称のdifferenceは時間的な距離(=想起)の中に、三人称のdifferenceは空間的な距離(=視覚)の中にあることは確かだ。けど、一人称も三人称もなくなる、つまりは想起と視覚の区別がつかなくなる(=思い出しているのか見ているのかわからなくなる)無人称のdifferenceはどこにあるのか。おそらくそれはdifferenceそのものなのだろう。なにかとなにかのあいだにあるようなdifferenceではない。雨と、雨を見ているわたしのdifferenceではない、differenceそのものとしての雨音

ドゥルーズベルクソンの言う持続の概念を、差違の新しい概念として考えていた。一般に、差違は二つの事物の間に見いだされるものと思われている。難しい言い方をすれば、あらかじめ自己同一的なものがあって、その間に差違が見いだされると、つまり、差違は常に自己同一性に先立たれており、二次的でしかないと考えられている。だが、何かと何かとの差違ではない、純粋な差違なるものを考えられないか。これが『差違と反復』の基本的なテーマであった。「差違の概念には、二つの事物の間の差違ではないような差違が含まれている。[…]。[…]いかなる条件のもとで、差違の純粋な概念を構成したらよいだろうか?」(國分功一郎『カントの批判哲学』訳者解説 ちくま学芸文庫 p.221)

何かと何かとのdifference[差違]ではない、つまりは人称の無い、differenceそのものとしての小説。それはわたしたちにつねにしてすでに与えられている試練なのかもしれない、耐えるしかないとわたしは思う。それは誰であるのか、何であるのか、出来事の裏に隠れた本質を、わたしたちはついつい知りたくなってしまうし、知った気になってしまうのだが。

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

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