Naked Cafe

横田創(小説家)

光のなかにしっかりおさまっている

夜と灯りと (新潮クレスト・ブックス)

夜と灯りと (新潮クレスト・ブックス)

5月6日発売の『すばる 6月号』に、クレメンス・マイヤー『夜と灯りと』の書評を書きました。原書がドイツ語のもの(であると知っているもの)を日本語で読んでいるのに素晴らしい一行が、その一行と別のまた一行の連なり、というより飛躍と呼ぶほかない思いがけない意味に、つまりは乖離することで接続する言葉の冒険に出会うたびにいちいち英語に翻訳したくなるほどこの小説は英語で書かれたたくさんの小説とのあいだで書かれています。そうわたしは断言します。(ドイツ語がまったくできないのでわからないけど、おそらくとても優秀な!)翻訳者のひとはあとがきでヘミングウェイやブコウフスキーの名前を挙げていますが、わたしが一番強く何度も思い出したのはジェイムス・ジョイスでした。それも『ダブリナーズ(ダブリンの市民)』の「死者たち"The Dead"」でした(日本語で読むなら断然おすすめなのは高松雄一訳!)。風景を言葉で表すのではなく、言葉がそのまま風景として、ちょっとやりすぎじゃないかと思うほど馬鹿みたいに晴れた春の散歩の途中で見かけた電信柱のように、すっくとそこに立っているのです。

正直、驚きました。これほどまでの小説をいま、そう、いま書くひとがドイツにいたということに。それも旧東ドイツの都市でありバッハが生涯を捧げたルター派の教会があるライプツィッヒで下層の仕事に従事して、いまもそこで暮らして=書いているひとであることに。クレメンス・マイヤー。だけどその特異性、彼の出自や民族や性別は一瞬にして無化されるほど強烈な言葉の権能(=平等!)がこの小説の中には働いています。要するに、言葉を読む意志を持つものであるなら誰でも読むことができる小説であるということ。純粋言語(ヴァルター・ベンヤミン)。という意味では、レイナルド・アレナスの自伝としての小説も、小説としての自伝も、どちらも同時にわたしは思い出しました(ああ、またすぐにでも彼の文章に触れたい! 読みたい! 彼の書いたものはみんな好きだけど、中でも特に好きなのは『ハバナへの旅』に収録されている「最初の旅……エバ、怒って」)。日本語で読めない彼の小説は、スペイン語ができないわたしは英語で読むことしかできないけど、どれも「言葉を読む意志を持つものであるなら誰でも読むことができる小説」でした。「最初の旅……エバ、怒って」は、わたしがいまでも一番好きなファッション小説でもあります。ニットとは、布と呼ばれる物ではなくて編むこと、運動すること、こころを動かされること、踊ること。とにかく編んで編んで、編むものがなくなれば洗濯紐でもなんでも引きずり下ろして縒って編むこと、そして着ること! 踊るふたりを見てもらうこと!

クレメンス・マイヤーの灯り好きには、ほんと驚きました。これほど何度も同じ風景を、似たような風景ではなく、優れた映画作家の作品がそうであるほかないように、まったく同じ風景が、それはいつも夜と灯りが、中でも特に街灯が、それを見ている(=読んでいる)わたしたちのほかに誰も見てない、通りすがりの風景として登場する小説は、少なくともわたしは読んだ記憶がありません。わたしも街灯が好きで、それはいつも「外灯」と、外であることを強調しながら書くのだけれど、壊れてカヴァーの割れ目から直の、裸の光が夜の中に洩れて虫が盛んに飛び交っている公園の池の端の、あるいは高校の昇降口の階段の横に立つ、そしてまだわたしが見たことのない、もしかしたら誰も知らない、見向きもしない水銀灯のとてもきまじめな、定刻通りに火が灯る夜のお勤めなのかもしれない。わたしは外灯が好きです。気づいたときは外灯を好きにならざるをえない人生の中に放り込まれていました。思い出すのはいつも夜の音です。光のまわりに集まっているのは虫やわたしたちの視線だけではないのです。音もまた孤独な光と、いまここで見ているわたし以外の誰も目にしていない夜と光と親和するのです。夜と光と親和するのは音だけであり、それはどうしたって言葉にならずにおれない感情なのです。青山霊園の西麻布方面へ降りる坂道の外灯が好きです。根府川の蜜柑畑の急な斜面を降りた先で渡る線路っぱたのまっ黄色な外灯は黄泉の国の提灯のようにわたしの行く先をいつも明るく照らしてくれます。青白いのも、嘘みたいにオレンジ色な高速道路の外灯も、UFOみたいに十字路のまん中に浮かんだ外灯も好きで、見れば口をぽかんとあけていつも、いつまでも眺めています。夜のパーキングエリアから眺める外灯の下の長距離バスの座席が並ぶ透きとおった車内も、ジュラルミンのコンテナを曳くトレーラーの運転席で窓に小汚い靴下の足の裏を見せて寝っ転がりながら漫画雑誌を読んでいる彼の私生活を覗き見るのも好きです。そういう是が非でも灯りをともして見てみたいひとたちの生活が『夜と灯りと』と題されたこの小説群の中にはあります。小説「集」というより小説「群」。降り始めの雨がアスファルトに残す乱れたリズムと月の前を遠慮なく横切る夜の雲の濃淡が、パソコンのマウスの裏にこびりついた油っぽいほこりの粘りの気まぐれとそのどうしようもなさが、起きなきゃいけない朝のまぶたの重さが、まどろみがこの小説にはあります。そして誰もが、いつもなにかを待っている。そこが好き。どうしようもなく好き。『がんばれ!クムスン』(ペ・ドゥナ主演!)の、あのイッちゃった旦那の焼酎の早飲みをするときの掛け声くらい好き。自動販売機の土台のコンクリートと本体のあいだにあるボルトが好き。わかる? ネジ一本で、いや四本と言うべきなのかわからないけど、あれだけで地面と夜空のあいだで踏ん張っている姿というか、たたずまいが好き。椿鬼奴が好き。彼女の道路工事で断水したみたいに涸れた声量と八十年代へ心中めいた、変態めいた傾倒が好き。あの諦めっぷりが、自己の絶望っぷりが好き。あら、いまわたし、なんの話をしてたんだっけ? そうだ。クレメンス・マイヤー。彼の小説の一番好きな箇所を、いくつもある一番すきな箇所のひとつを、最後の最後に引用します。

おれはポン・ジ・アスーカルに立って、グアナバラ湾を見下ろしている。今は夜で小さな島々にはいたるところ灯がともっているのが見えて、島の間にはずっと遠くまで船の灯りが見える。おれの後ろの空は明るい。星じゃない。リオ・デ・ジャネイロだ。……「南米を待つ」

すばる 2010年 06月号 [雑誌]

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ハバナへの旅

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ダブリンの市民 (福武文庫)

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