余白はいつでも、わたしたちが思うより、ずっとひろい。余白というと、ノートの罫線のない部分のイメージがあるけど、それで言うなら余白の本当は、ノートも含めたテーブルの上にこそある。そしてテーブルが置かれたカフェの上に、カフェのある土地も含めたその街の上に、それらすべてが島のように浮かぶ海の上に。
「いまひま?」という言葉で誘ってきたり、メールを送ってきたりするひとは、時間を用事から先に考えているところがあると気づいたのは数年前だけど、実感したのは最近で、どうやら用事がない時間はすべて、ひまらしい。わたしは「いまひま?」と聞かれると、困る。時間の余白だけがわたしの仕事の時間で、いまはとっても忙しいから。
いつでも仕事をしていると言いたいわけではない。ただそれがわたしの海で、いや、正確に言えば、わたしのものではないわたしの海で、ときおり波頭のようにひとと会う用事が浮かんでは、消える。そしてまた溺れる、わたしという波がわたしのものではないわたしの海にのまれる。わたしが「わたし」でないとき、わたしはわたしの仕事をしている。
ひととひとのあいだに関係があるのではないように、余白はジャムを塗り残したパンの耳のようにあるのではない。波頭と波頭のあいだに海があると言ったら、漁師はきっと笑うだろう。全部海だよ、そして波だよと、言うだろう。
いまや日本と言えばその風景を思い出す外国人も多いであろう渋谷の交差点を思い浮かべて欲しい。そしてその中にあなたの愛するひとがいるのではないかと思うとき、あの交差点は交差点であるままそのひとになる。彼女ではない彼女の余白。けっして彼女ではないひとやものを見ているとき、わたしは彼女のことを思い出している。わたしにとっては、いつもすべてが彼女の時間だ。
合意がいつも懐かしいのは、それが余白であるからだ。本来わかり合えてたはずのふたりがわかり合えたのだからと言いたいのではない。コミュニケーションはとるものではなくてあるものなのだと言いたいだけだ。だからやれ「ディスコミュニケーション」だの「齟齬」だの「ズレ」などと、ありもしないものをさもあるように言う者たちは、海より先にある波のような個だけが、自分だけがいつも懐かしいのだろう。
わたしはエリック・ロメールの『友だちの恋人』という映画が好きなのではない。「わたし」と「好き」が、主語と述語が逆なのだ。「好き」が海のように、余白のように先にあり、たまたまそこに「わたし」という波頭が白く浮かんでいるだけなのだ。『緑の光線』の最後の最後、駅で出会ったふたりが出会うと同時にすでに懐かしいのは、きっとそのせいだろう。「それはドストエフスキーの『白痴』ですね」という青年のひとことは、カントなら共通感覚と、スピノザなら共通概念と言うであろうその合意は、目には見えない海のようにつねにしてすでに彼女の余白にあったのだ。
意味が言葉のふるさとであるのもそのせいだ。原作を翻訳するのではなく、翻訳こそが原作であると知るとき、ひとは作家になる。彼女は一行書くごとに、その波の音に耳をすませる。その余白に、意味の海に、潮の流れに、はるかな水平線に、目をみはる。あるひとつの言葉は、読みようによってはどうにでも解釈することができる意味を無数にもつのではない。そんなことくらい彼女は知っている。知ってるからこそ、ひとつの意味を選び出すことに、その決断(=切断)にこころが震える。もちろん、どの意味にも意味の無数が、言葉の余白が思い出のように生きている。
女ともだち。Among Women Only。彼女はいつも、彼女のともだちのことを考えている。会うのはたまのことだけど、いつも彼女たちのことを考えている。そして、この「考えている」だけが自分であるのも知っている。彼女のものではない彼女の余白。彼女が「彼女」でないとき、彼女は彼女の仕事をしている。
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