Naked Cafe

横田創(小説家)

存在論的なまどろみの中で〜『天使の囀り』を読む〜

いま、シーズン1から、ドラマの『相棒』を観ながら、その卓越した構成を、杉下右京言うところの「動機」を軸にした図にして分析しています。これが気味が悪いほど楽しい。たとえば、シーズン2第14話「氷女」の図はこんな感じです。

"凍死事故"=凍死事件←(動機)過去の凍死事故←「夫」の左遷←セクハラ冤罪←会社の出世争い

"○○"は「事件」の最初の様相です。この第14話のように事故として処理されようとしていたとしても「事故として処理されようとしていた」ことそのものを事件化する(=問題にする)ことではじめて捜査は開始されるという意味で、事故か事件かは事後的に、当事者ではない者たち、第三者によって決められる。第14話「氷女」でいえば凍死「事故」として捜査一課は処理しようとしていた。だが「凍死した死体の心臓まで凍っていた」という検死結果と「まだ彼は生きていたように見えた」という証言に違和感をおぼえた特命係のふたりは捜査し始める。気をつけなければならないのは、杉下右京の言う、そしておそらく考えているところの「動機」という言葉の射程のひろさであり、その深さです。極めて物理的かつ合理的に彼は「動機」を考えている。それは「凍死した死体の心臓まで凍っていた」のはなぜなのか、の「なぜ」であり、なにが凍死した死体の心臓を凍らせたのかの「なに」であり、さらに言えば「なぜ」よりも「なにが」に重みを置くところ(=構造主義的な思考)に杉下右京の天才はあります。右京にとって「動機」とは、不確かなひとの気持ちなどではなく、むしろ確かすぎるほど確かなこの世界の気持ちとしての存在(ハイデガー)、その構造と力のことなのです。

わたしはこの(「この」の後に、どんな名前も入れることのできない)力のことを『ユリイカ 特集*貴志祐介』に寄稿したエセーの中で「構造」と書きました。日本語で書く、実にたくさんのひとが「構成」を「構造」と書く取り違え、あるいは混同をおかしているようにわたしには見えるのですが(ニーチェなら、原因と結果を取り違えていると書くでしょう)、それこそまさに「動機」を見ずに「凍死」と断定し捜査を打ち切ろうとする『相棒』の警視庁捜査一課のひとたちと同じです。目に見えるもの=構成されたものから目に見えないもの=構造へ遡行する意志を、批評=空間を、距離を持たず、原因と結果という二項の、もはや関係と呼ぶことのできない関係、取り結び、癒着のみで処理しようとする者たちの思考に穴を穿ち(再)捜査するきっかけになる「ささいなこと」をいつも「違和感」と杉下右京は表象する。第14話「氷女」で言えば、酔っぱらって(原因)凍死した(結果)というように。当然ですが、結果と言えばすべては結果なのです。原因であると見るならすべては原因で、なにかを「なにか」として見つめるわたしたちの思考はどこまでも遡らざるをえない。原因の原因の原因の原因の……の原因という「原-原因」という「結果」の現前、その風景(「氷女」の夫への愛)が、優れたミステリの「トリック」と呼ばれるものの正体、図そのものではないでしょうか。

探偵という語り手によってはじめて現れる、語られる風景。ミステリと呼ばれるジャンルの門外漢だったわたしもいまやこの風景を愛する者のひとりです。それは上に書いたような図をひとり眺める者の視線でありその自由です。より自由に語るためにはきっと語り手や語り口の手や口が邪魔になる。そしてもはやなにものでもない「語り」そのものになる。やはりわたしは谷崎潤一郎の「母を恋ふる記」を思い出しています。「母」の現前というこの小説の結果を、つまりは最後の最後に見えてくる風景を原因と取り違えている谷崎の研究者たちは『相棒』の捜査一課のひとたちに似ている気がします。元捜査一課の特命係にしか立ち合うことのできない、誰もいない風景こそ小説、あるいはブランショが物語[レシ]と呼んだものなのではないのか。オデュッセイアユリシーズの瞳は、この世界をいつでも事件後の世界として見る/見つめられることで思索(=詩作)を始める。テオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』をミステリ映画として観る視線がわたしたちには必要なのではないでしょうか。

ところで、あらゆるものに先立って「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。思索は、この関わりを、作り出したり、惹き起こしたりするのではない。思索は、この関わりを、ただ、存在から思索自身へと委ねられた事柄として、存在に対して、捧げ提供するだけなのである。この差し出し提出する働きの大切な点は、思索において、存在が言葉となってくる、ということのうちに存している。言葉は、存在の家なのである。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。[…]思索は、そこからなんらかの結果が出てくるとか、あるいは思索が適用されるとかいうことによって初めて、行動になるのではない。思索は、みずからが思索することによって、行為しているのである。この行為は、おそらく、最も単純でありながら同時に最高のものである。なぜなら、それは、存在の人間への関係に関係するからである。(マルティン・ハイデガー『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎・訳)

「ヒューマニズム」について―パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 (ちくま学芸文庫)

「ヒューマニズム」について―パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 (ちくま学芸文庫)

天使の囀り (角川ホラー文庫)

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