Naked Cafe

横田創(小説家)

要するに、馬鹿なのである ……小説のまなざし

 なにかを見て思い出すのでも、思い出したいなにかがあるのでもなく、ただ「思い出す」という欲望だけが先に作動している。だから小説にとっては、すべての言葉がなつかしい。I Guess Everything Reminds You of Something=なにを見てもなにかを思い出す。これはアーネスト・ヘミングウェイの言葉だが、この言葉をタイトルにした短編小説はあまり好きではないどころか大嫌いだが、この言葉は見事なまでに小説のこころもちというか、こころここにあらずな感じをあらわしている。
 小説はいつもそわそわしている。なにを見ても自分はそこから来たのではないかと思う。生まれてはじめて来た街なのに自分のふるさとに見えるどころか、自分のふるさとなのに忘れてしまった街の中に自分はいるように感じる。言葉に折り畳まれて、忘れ去られた記憶の風景。わたしはそれを知っているような気がする。小説はいつもそこから始まる。すでに始められていたものに気づくことから始まる。

國文學 臨時増刊 特集:小説はどこへ行くのか 2009』に、わりと長めの小説論を書いたこともあって、最近つとに思う。というかなにを見ても思う。ドラマを見ていても思う。乳母車の中で新種の動物みたいな奇声をあげている赤ちゃんを見ても思う。その乳母車を押している母親のちょっとがんばっちゃったふたつ結びを見ていても思う。世界はあまりにかわいすぎると思う。かわいすぎるからわたしはいろいろ考えてしまうのだと思う。はっきり言って、迷惑どころの話ではない。このかわいさにさんざん苦しんできたしこれからもまちがいなく苦しみつづけると思う。

たぶん小説とは愛におびえる精神のおののく姿そのものなのだろう。そして愛を一方的に切り捨てるか高らかに謳い始めたときその使命を終える、どっちつかずのものなのだろう。
参照→「これは、誰の、風景なのか