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横田創(小説家)

性=差について

ル・クレジオ 地上の夢―現代詩手帖特集版

ル・クレジオ 地上の夢―現代詩手帖特集版

性差。性とは差であり、差異そのものであり、つまり性差とは性=差であること。……ぼんやりとわかっていたようでわかっていなかったような気がするそのことについて考える機会をわたしに与えてくれたのはやはりファッションでした。ユニセックス[男女兼用]の服を誰も彼もが、男も女もなく着るという夢、その神秘に触れていたわたしが否定していたもの、それが性という単に或るひとつの差であるならことは大して重大ではないのですが、仮にもし性こそが差であり、差異そのものであるとするなら、それは関係の抹消、否定を意味するのではないか。差異がなく同質な場所に関係という距離が、問いが、意味の送り直しがあるはずないのですから。……晩年のフーコーがゲイであっても性差はあると、ことのほか強調していたことの意味に触れたような気がしたのです。

性=差はかならず身体性、身体の差としてあらわれます。陰茎も乳房も、がっしりとした肩もひろい骨盤も性=差です。だけど性=差は男性を、そして女性を規定するものではなく、つまり"男性らしい"および"女性らしい"と表象できるものでもなく、身体そのもの、そこにあるもの、可能であるもの、目に見えそして触れることができるすべてのものは性=差であり、性とは、差とは、なにかとなにかのあいだにあるものではなく、なにかとしてあること自体が性であり差でありあいだである、つまり身体こそが性=差であり、あいだなのです、関係なのです。

身体とは関係である。差のある、性のある別の身体、あなたの手に触れるわたしの手と手のあいだにあるのではなく、触れる/触れられる手、その手自体がすでにしてつねに関係であり、差異であるからこそ手が手として、身体としてそこにある、現象する、身体=関係としてこの世界を見る。……それは存在するもの、存在を与えられしもの、目に見えるすべてのものを"しるし"として、痕跡として遠く眺める思考のことです。車に激突されて、それはそれでなくなり、ひしゃげているのではありません。ひしゃげたガードレールこそが出来事であり、事故と呼ばれる関係なのです。ギャグではなく大真面目で言うと、肉体関係、もしかしたらこれも性差と同じでトートロジー[同語反復]なのかもしれません。つまり肉体=関係、肉体でない関係などあるはずないし、関係をもつとはすなわちなにかがなにかとしてそこにあること、現象するそれを、それらすべてを受け入れること。或るひとつの身体、誰かと出会うことはそのひとが抱えた無数の関係、巻き込まれ拘束されている状況、親や兄弟、友だちや恋人との関係、病気との関係に関係させられること、紹介されることになるのは当たり前で、付き合い始めたカレシにおまえの親に会いたくない、友だちを部屋に呼ぶな、俺はおまえと付き合っているのであっておまえの親や友だちと付き合うと決めたわけではない、関係ないと言われると自分自身を否定されたような気がして悲しくなるのかもしれません。なぜなら"わたし"とは関係そのものだから。

……現代詩手帖特集版『ル・クレジオ』に収録されている澤田直「風の作家 ル・クレジオ」を読んでこんなことを考えました。そのなかにジャン・リュック=ナンシーの「魂[プシュケ]とは延長である」という言葉を見つけたからかもしれません。わたしのなにかが、いや、わたし自身がexciteされ、こんな文章としてあらわれたのです。わたし自身が読書として、つまりは言葉の関係(……これこそトートロジー!!! 同語反復!!!)としてあらわれたのです。では乳房の関係、関係としての乳房とは? 陰茎のコミュニケーション、コミュニケーションとしての陰茎とは? 身体だけがいつも外にあり、関係にさらされているのは、それそのものがすでに関係でありつねにさらされていることを忘れないようにしよう。つまり乳房の気持ち、感情としての乳房とは? 陰茎の季節、風景としての陰茎とは? 冬になるとイチョウの葉が黄色くなるのではなく、黄色くなったイチョウの葉それ自体が冬であり、寒さのしるし、時間のあらわれ、暴力の痕跡であるように。

秘密がないということ、これが秘密だ。外側から見られた世界が、どうしようもなくそこにある。というのも、内面と呼ばれたもの、思想と呼ばれたものは、世界の外面にすぎなかったからだ。色のついた表面、一種の表皮のようなもの、本当の肉、部屋の内部、言葉と魂とはなにかといえば、それはあらゆる花と葉と果実と、皮膚と、小石と、足跡からなるもの、不可解なしるしに満ちた現実なのである。(ル・クレジオ『悪魔払い』 澤田直「風の作家 ル・クレジオ」のなかで引用されているもののreprise)