Naked Cafe

横田創(小説家)

死を耐え、死のうちで自らを維持するもの

意味という言葉に、わたしの知る限り、もっとも積極的な意味を与えたヘーゲル論は、ジャン=リュック・ナンシーの『ヘーゲル 否定的なものの不安』である。

なにがこうして「存在なるもの」──存在そのものの固有──であるかといえば、それは、意味へと生成するために、自己を存在として否定することである。意味へと生成するといっても、存在は或るものが破壊されるように自己を廃止するのではない。存在は浸透不可能な基体的存立という存在であることを否定し、このように否定しながら存在は意味の存在であることを肯定するのである。(「意味 Sens」訳・大河内泰樹+西山雄二+村田憲郎)

「真理とは所与ではない」と、ヘーゲル=ナンシーは言います。そのうえで「哲学の言説は絶えず規定の否定を言表し続ける。その統辞法はすべて、〈A=非A〉、〈私=非私〉という命題の無際限な増幅である」とも。この意味で言えば、所与とは〈A=A〉〈私=私〉のことで、「浸透不可能な基体的存立」を存在として規定することです。つまり〈所与=浸透不可能な基体的存立〉という命題は〈所与=非所与〉であり〈浸透不可能な基体的存立=非浸透不可能な基体的存立〉である限りにおいて真理であり、意味への無際限な生成なのです。

自己を存在として否定すること。意味の存在であることを肯定すること。それはそれではないの〈でない〉がそれで、私は私ではないの〈でない〉が私。この〈でない〉をヘーゲル=ナンシーのみならず哲学者たちは「否定」と呼ぶのだけれど、彼らは「存在」という語そのものは(「存在なるもの」であるかといえば、と語り始めているとおり)否定してはいません。存在とは非存在であると言っているのです。つまり〈存在=非存在〉という命題こそが、彼らにとっての意味の定義なのです。その固有性は非固有なものの中にあると言っているのです。

わたしは文体を、その体を非体として、意味への生成として思考し始めています。否定しながら文体は意味の文体であることを肯定する。文体が小説の存在であることを否定するひとはいないでしょう。だけどその存在の肯定の仕方が問題なのです。わたしがよく口にする言葉で言えば、なにも想起しない文体は文体ではないのです。言い換えれば、いまそこに書かれていること、文体自身を否定しない文体は文体ではない、非文体だけが文体なのです。いまここにいながら、いまここを否定するかのように、いまここではないもの、非いまここを思惟する。想起は、文体が文体自身を否定し、無際限に増幅する運動、意味の存在なのです。

大勢の見知らぬ人たちとその話し声に囲まれて、記憶が溶け出しそうになる。披露宴に来たことを後悔した。部屋の外に出るべきではなかったのかも知れない。不思議なことに、一人で部屋にいるとき、記憶はわたしのからだの中でじっとしている。人のからだからはエネルギーの波のようなものが出ていると言った人がいた。その波のようなものが他人の記憶を揺すぶったり震わせたりするのだそうだ。このままここを出て行ったほうがいいのだろうか。だが、さっき歩いてきたが、このレストランの外も似たようなものだった。ブティックやカフェに大勢の人が群がっていて、その間を歩いていると心がざわざわして落ち着かない気分になった。(村上龍「披露宴会場にて」文春文庫『空港にて』所収)

空港にて (文春文庫)

空港にて (文春文庫)

あ、そういえば……。いま話していることとは別のことを、次々思い出しながら話しているとき会話は弾む。議論ももちろんそうで、誰もなにも否定しないのなら議論する意味がない。そう、意味がない。

自己の中に閉じこもったまま静止し、実体として自分の諸契機を保持している円環は、直接的関係であり、それゆえ驚嘆すべき関係ではない。しかし自分を取り巻く環境から分離された偶然的なものそのもの、結びつけられ、他の現実的なものとの関連の内にのみあるものが、自己固有の定住と、切り離された自由とを獲得するということが、否定的なものの途方もない威力なのである。これこそ思惟の、純粋自我のエネルギーである。死は、我々がかの非現実性をそう呼ぶとすれば、最も恐るべきものであり、死せるものを引き止めることには、最大の力が要求される。[……]しかし死を恐れはばかり、荒廃から純粋なままわが身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え、死のうちで自らを維持するものこそが精神の生である。精神が自分の真理を獲得するのは、絶対的な裂け目のうちに自分自身を見出すことによってのみである。(G.W.F.ヘーゲル精神現象学』序論『ヘーゲル 否定的なものの不安』所収)

ヘーゲル―否定的なものの不安

ヘーゲル―否定的なものの不安

  • 作者: ジャン=リュックナンシー,Jean‐Luc Nancy,大河内泰樹,村田憲郎,西山雄二
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2003/04
  • メディア: 単行本
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