Naked Cafe

横田創(小説家)

神と見紛うばかりの

10月13日発売の『ユリイカ(総特集*ペ・ドゥナ『空気人形』 を生きて)』に掲載されたエセーで、主にポン・ジュノ監督の映画『ほえる犬は噛まない』(原題:フランダースの犬)の中のペ・ドゥナについて書きました。

ペ・ドゥナペ・ドゥナであることでペ・ドゥナではなく、ペ・ドゥナではないことでしかペ・ドゥナであることはできない。なぜなら彼女は女優だから。誰かの代わりを演じる、の「誰か」ではなく「の代わりを」演じる。特にこの「の」と「を」を演じる。誰か「の」代わり「を」演じる力。陶酔。不眠、もしくは目をあけてみる夢。「誰か」も「代わり」も「演じる」も同じひとりの女優の、ペ・ドゥナである。

見紛う、という言葉が好きです。同じくらい好きなのが、見たような、という言葉で、これは、みたいな、の語源で(とわたしは記憶しています)、宮沢賢治の童話で知りました。熊見たような男だ、みたいな使い方をします。わたしにとって、そしておそらく多くのひとにとって、見紛う、と言えばそれはもう「神と見紛うばかりの」であるのはなぜなのか。韓国の映画女優ペ・ドゥナについて書きながら考えました。

神と(しての)見紛う。神を見紛うことなく見ることはできないのは、神とは見紛う(という行為そのものの)ことだからだと思います。なぜなら、熊と見紛う(=熊を見たような気になる、熊みたいな、と思う、もしくは形容する)ことはできても、神と見紛う(=神を見たような気になる、神みたいな、と思う、もしくは形容する)ことは、現実的かつ具体的に言えば、できないからです。

では、ルルドの泉での少女ベルナデッタの経験はどうなのでしょうか。「水差しの水がこぼれないうちに、馬に乗って天国を一周してきたマホメット*1の経験はどうなのでしょうか。そのほかにもたくさんのひとが「わたしは神を見た」と証言しています。その神は、どんな顔をして、どんな姿をしていたのでしょうか。

神よりも神の似姿[表象]のほうが先にある(=あらかじめそれはある)。わたしはイエスの「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」*2という言葉を、たとえばそんなふうに解釈しています。神の似姿[表象]とは、神に似せて作ることでも描くことでもない。なぜなら神に似せて作ろうにも、描こうにも、語ろうにも、神が作るや描くや語るといったわたしたちの行為よりも先にあることはないからです。「神」も「私」も同時に「ない」ものにする(=否定する、廃墟にする、関係という「外」の中に入る、無人称になる、Aufhebenする/される)ことでしか、わたしたちは神を作ることも描くことも語ることもできない。要するに、信じることはできないからです。マリアが確かにいたから、実在したから少女ベルナデッタは、ルルドの泉に立つ聖母マリアを見ることができたのではなく、彼女がマリアを見た(=見たような、みたいな象を、似姿を描いた、見紛った、証言した、語った、書いた、演じた)ことによって/においてはじめてマリアは存在する*3。白いドレスを着て青いベールをまとったマリアの似姿を描き、あるいは語る〈わたしたち〉*4のほうがマリアよりもつねにしてすでに先にある(「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」)。

(……とってもわかりづらい話でごめんなさい。けどわたしにはどうしても考える必要があるのです。わたしは「生きる」と「信じる」について考え始めています。)

上に書いたように、神ではない熊の存在[presentation]はいっけん描くや作るや語るといった「表象する=〜の代わりになる」わたしたちの行為[representation]よりも先にあることが可能なような気がします。だけど本当にそうなのでしょうか。わたしたちは本当に熊を見ているのでしょうか。もし見ている(=見る対象が、見るという行為よりも先にある)と言うなら、熊「の代わりになる」画家の仕事は、描く、ではあっても、生きる、ではないと思います。わたしたちは、なにかを表象するとき、とたえそれが熊であっても、虫であっても、雲であっても神なのは、神と見紛うばかりになるのは、そのなにかを生きることだからだと思います。それ「の代わりになる」こと=主体化すること(自己も対象も、主体も客体も同時に否定し捨て去ることで、関係という外の中に入ること、死を耐え、死のうちで自らを維持すること*5、「ラザロよ、起きよ!」と呼びかける記憶*6、見ずに書くこと、闇のなかで書くこと*7)だからだと思います。ファーブル昆虫記の絵本作家として知られる熊田千佳慕は「わたしは虫である」と言いました。本当に、本当に素晴らしい絵です。

この「〜になる」=「生成変化」というジル・ドゥルーズの思想。いまここでわたしの言うところの〈生きる〉という「生成変化の中でしか開示され得ない永遠や、運動の中にしか出現しない風景」*8として、ペ・ドゥナが出演する映画『ほえる犬は噛まない』を観ることで、それをあなたも経験することができると信じて。

*1:ドストエフスキー『悪霊』第三部 第四章 最後の決定 5のシャートフの妻の出産場面で、キリーロフが「永久調和」と名づけて語る啓示、享楽、純粋経験としての死。

*2:ヨハネによる福音書8-58

*3:実在するには自分を存在するがままにしておくだけでいい、/しかし生きるには、/誰かでなくてはならない、/誰かであるためには、/一つの「骨」をもたなくてはならぬ、/骨をあらわにすること、/同時に肉を失うことを恐れてはならぬ。(アントナン・アルトー「糞便性の探求」訳・宇野邦一 河出文庫『神の裁きと訣別するため 』所収)

*4:虚構化とはつまるところ存在の主体なのである。(ジャン=リュック・ナンシー無為の共同体』訳・西谷修安原伸一朗 p.106)

*5:自己の中に閉じこもったまま静止し、実体として自分の諸契機を保持している円環は、直接的関係であり、それゆえ驚嘆すべき関係ではない。しかし自分を取り巻く環境から分離された偶然的なものそのもの、結びつけられ、他の現実的なものとの関連の内にのみあるものが、自己固有の定住と、切り離された自由とを獲得するということが、否定的なものの途方もない威力なのである。これこそ思惟の、純粋自我のエネルギーである。死は、我々がかの非現実性をそう呼ぶとすれば、最も恐るべきものであり、死せるものを引き止めることには、最大の力が要求される。[……]しかし死を恐れはばかり、荒廃から純粋なままわが身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え、死のうちで自らを維持するものこそが精神の生である。精神が自分の真理を獲得するのは、絶対的な裂け目のうちに自分自身を見出すことによってのみである。(G.W.F.ヘーゲル精神現象学』序論『ヘーゲル 否定的なものの不安』所収)

*6:このようにして、G氏の制作には二つの事柄が現れる。一方は、蘇らせ、喚び出そうとする記憶の緊張、おのおのの物に「ラザロよ、起きよ!」と呼びかける記憶だ。もう一つは、火であり、鉛筆や絵筆の陶酔、ほとんど狂騒にも似たものだ。それは、十分に速く進んでいないのではないかという恐怖、幽霊を取り逃がしてしまって、そこから総合が抽出され把握されることなしに終わるのではないかという恐怖だ。この苛酷な恐怖こそ、すべての大芸術家たちに取り憑いて、表現のあらゆる手段をわがものにしたいと、かくも熱烈に欲せしめるところのものであって、それは、精神の下す命令が手のためらいによって歪められることが絶対にあってはならない、つまるところ制作、理想的な制作というものは、食事をした健康な人間の頭脳にとって消化作用がそうであるのと同じほど無意識で、同じほどすらすらゆくものでありたい、と望めばこそなのだ。(シャルル・ボードレール『記憶の芸術』 ジャック・デリダ『盲者の記憶』訳・鵜飼哲 所収 p.62)

*7:「私は見ずに書いています。やって来てしまいました。あなたの手に接吻し、そして引き揚げるつもりでした。私は引き揚げるでしょう、接吻という報いなしで。けれども、私がどれほど愛しているかをあなたにお見せできたなら、私はそれで十分報われたことになるのではないでしょうか。あなたを愛していると私は書く、そのことをあなたにすくなくとも書きたい。でも、筆が欲望のままに進んでくれるかどうかわかりません。私が口でそう言い、そして逃げ出すだけのために、あなたは来てくださらないのでしょうか? さようなら、ソフィ、おやすみなさい。来てくださらないということは、あなたの心が、私がここにいるのをお望みでないということです。闇のなかで書くのはこれが初めてです。この状況は私に、とても優しい思いをいくつも吹きこんでくれるはずです。それなのに、私が感じるのはたった一つ、この闇から出られないという想いです。あなたの姿をひとときでも見たい、その気持ちが私を闇に引き留めます。そして私は話し続けます、書いているものが文字の形をなしているかどうかもわからずに。何もないところにはどこにでも、あなたを愛していると読んでください。」ドゥニ・ディドロ(ソフィ・ヴァラン宛、一七五九年六月一〇日) ジャック・デリダ『盲者の記憶』訳・鵜飼哲 所収 p.124

*8:ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』「第1章 文学と生」訳・守中高明・谷昌親・鈴木雅大