Naked Cafe

横田創(小説家)

塩鶏じゃが ……翻訳料理のすすめ

塩鶏じゃが:田口 成子

レシピブログを本家である当ブログと統合することにしました(レシピブログにアップした記事もこちらへ順次移動させる予定ですので、料理ブログとしてお使いになりたいときはカテゴリー機能を活用してください)。レシピだけを独立させるとどうもわたしは身構えてしまうようで半年も更新を滞らせてしまいました。これからは、期せずして編み出してしまったオリジナル簡単レシピだけでなく、わたしが普段お世話になっているレシピ本やネットで見つけた大好きな料理研究家さんたちのレシピの中から実際に自分でつくってみて、こりゃうまいと感激したレシピについても書きたいと思っています。

NHKの月刊誌『きょうの料理』が好きです。いろいろレシピ本を買ってみて、そして実際につくってみて『きょうの料理』に行き着いたわたしのようなひとも意外と多いのではないでしょうか。数年前にページがワイドになって、ぐっと使いやすくなりました。ネット版(http://www.kyounoryouri.jp/)にも本の三分の一か半分くらいのレシピが紹介されています。食材や料理名で検索することもできるので頻繁にわたしも使っています。

その中に、鶏のもも肉を使った『塩鶏じゃが』という変形肉じゃがを発見して、これはと思ってつくってみると思いのほかよくできた、よく考えられたレシピで、簡単なのにすごく丁寧で繊細な味の肉じゃがでした(ちょっとだけアレンジして、貝割れ大根を刻んだものをのせてみました)。肉じゃがは、イギリスに留学した東郷平八郎が帰国後つくらせた「シチュー」が起源のようですが、シチューが肉じゃがになるだけあって、いわゆる日本の味の象徴的レシピと言えるのではないでしょうか。彼氏につくるレシピにはかならず載ってますし、肉じゃががつくれる女の子は好感がもてるうんぬんなどといううざったい話もよく耳にします。

ならばいっそもっとシンプルに、と考えられたケンタロウのフライパン肉じゃががわたしは好きで、何度もつくったことがあります。元は彼の母親である小林カツ代の肉じゃがで、ためしてガッテンで紹介されている通り「炒め蒸し」して味を凝縮させるところがポイントです。味付けは、醤油:味醂:砂糖=2:1:1。典型的な日本の味です。そしてこれは、田舎に泊まろうや、突撃夕ご飯的な番組で、そして多くのひとが自分の実家で目にする「茶色い食卓」を結果させる味付けでもあります。日本の食卓に並ぶ料理はどれもみな茶色く、食材の違う同じ味がするのはこの醤油:味醂:砂糖の黄金比があるからです(それはサッカーのフォーメーションのごとく2:1:1、2:1:2などと食材や地域によって変化します。よく簡単料理などに使われるめんつゆをわたしが使わないのはこの比率を固定することになるからです)。なにもこれは日本に限った話ではなくて、どこの国や地域にもそれぞれの黄金比があり、食材の違う同じ味であることはいろいろな国や地域の料理を食べたりつくったりすることでわかってきました。

これは料理に限った話ではないですが、わたしは母国語ならぬ母国料理をレシピも見ずにすらすらつくって、ああ、やっぱりこの味が一番だとか、なつかしいと感嘆するのもされるのも苦手です。母の味、などと述懐されると身の毛がよだちます。いつでも母国料理を翻訳し破壊する欲望にかられています。そこへ行くとこの「塩鶏じゃが」は、なかなか破壊力のあるレシピです。じゃがいも、バター。発想の起源にはおそらく北海道があるのでしょう。その地域にしかない料理は内なる外国の料理で、瀬戸内海も含めた世界に点在する地中海地域を旅しているような気分になれます。火を通す前に擦ったにんにくと塩で鶏肉にマリネーゼするように下味をつけておくのがポイントです。これ絶対です。マリネは繊細さと野性味を同時に表現することができる極めて優れた料理手法です。

詩はあらゆるところにあると思われた。イタリアの農夫の魚のスープ、荒っぽい香料のたくさん入った料理、赤唐辛子、粗塩のかかった生のトマト、脂を塗ったり、にんにくのスープに浮かべたりして食べる固いパンといった風味の強烈な攻撃から逃れることはできなかった。しし鼻の田舎者が夜明け前から起きあがり、灰のなかから昨日の燃えさしをみつけだして火をおこし、哲学的な穏やかさで「これが私の火だ」と言い、胡瓜とキャベツの表面に蒸気が珠となって鍋が歌い、素朴で旺盛な食欲が湧きあがってくる。そしてこのようなありきたりの風景のなかにこそ詩は隠れているのである。(ロベール・ブラジャック『ウェルギリウスの存在』 福田和也『奇妙な廃墟』所収)

外国料理を外国料理として、あくまでもその味を忠実に再現するような(男の)料理をするのもわたしは苦手です。ワイン片手に、これが本場の味だと自慢するのは、原語でなければ本当の意味で小説を味わうことにはならないなどとわかったようなことを口にするのに似ています。

わたしは翻訳料理がしたい。外国語を辞書も引かずに原語ですらすら読むのでも、母国語を斜め読みするのでもなく、あくまでも、そしてどこまでも、たどたどしく翻訳する料理がしたい。レシピを見ながら/読みながらつくる逐語訳が理想の料理がしたい。わたしは料理をすることで旅をしたい。食べることでいまここから、わたしの中から抜け出したい。そうでなければ食べることも、料理をすることもないでしょう。